「地下鉄のザジ」がNHKの衛星放送で放映されていたのを録画で久しぶりに観た。
監督は死刑台のエレベーターで知られるルイ・マル氏だ。
原作も映画と同じように良く知られているようで、フランスの詩人で小説家のレーモン・クノー氏の小説によるものであるらしい。



私は夜遅くのテレビ放送で子供の頃に観たのだが、この映画が描いている難しい世界観は理解できてはいなかったと思うが、それでも当時のフランスの街角の空気を感じることができていた。
子供心の敏感さで感じることができたのだろう。
その頃の私の心は何処か空虚だった。
何も入っていない空っぽの心だったから、素直に「地下鉄のザジ」の空気感を胸いっぱいに吸い込むことがことができた。
「地下鉄のザジ」は子供心にも私にはとても刺激的であった。
映画では私の知らない世界がこれでもかと広がって出てくる。
パリのおしゃれな街角やエッフェル塔どれもが新鮮に映った。
その未知の世界を私は乾いたスポンジのようにがむしゃらに吸った。
吃音の私には何よりも映画を観ることが楽しみであり日課になった。
そのことにより古い映画は私の心の拠り所になっている。
吃音での苦しい毎日を映画は救ってくれた。
子供向きアニメもそれなりに夢を見せてくれるが、心の奥に響くものはやはり良い映画である。
大げさに言えばそのエッセンスが私の血と骨になってくれた。
別に難しい本を読まなくても映画を観るだけで心を豊かにし感性を磨いてくれる。
その感動は一過性のものではない長く一生残るものだ。
アメリカ映画も悪くはなかったが、私はやはりイタリアやフランス古い映画が好きだった。
古い映画からはその貧しさが見てとれるが、現実の世界はにはもう貧しさからおさらばで、フランス映画もそうだが、日本映画に出てくるような貧しさは私の子供の頃にはもうどこにも見当たらなかった。
だが私の家だけは貧しかった。
それでも吃音の苦しさと貧しさを映画だけは紛らわせてくれた。
何よりも私を救ってくれた。
それだけで私はありがたかった。
ヨーロッパ映画からアメリカ映画を観れば、悪を許さぬ正義や高い理想、それに豊かさがあった。
子供心にもアメリカは豊かに見え理想の国のように見えた。
大きな車に大きな冷蔵庫、それに釣り合う大きな家に大きな芝生の庭。
どれもが日本とは全く違った。
全てが桁違いに大きく強くて豊かだ。
日本人は戦後憧れをもってアメリカ文化を取り入れ、そしてアメリカ俳優を自分に置き換えハリウッド映画を観ていた。
正義を守る強いアメリカに喝采した。
ヨーロッパ映画にはそれとは違い深い悲しみがある。
第一次大戦、第二次大戦の傷なのだろうか?
映画に何とも言えない陰影を与えている。
やり切れなさとふてくされ、その両方が相まって悲しみとコミカルさが出ている。
本当は泣きたいのだが、泣いていてばかりでは生活ができない。
無理やり自分を鼓舞しながら怒り笑い大いに泣く。
それが彼らの日常の生活だったのだろう。



日本映画でも成瀬巳喜男監督の「浮雲」という名作があるが、その主人公幸田ゆき子役を高峰秀子が演じたのだがこれがとてもいい。
主人公、幸田ゆき子のふてくされ具合がこれでもかと出てくる。
どこか投げやりな言い方とぶっきらぼうさが、糸の切れた凧のような女性のもの悲しさを良く表している。
「あなたたち男がだらしないから私たち女はこのようになった」と言わんばかりの激しさがある。
映画は林芙美子の原作よりも数段いい。



またフランス映画では「へッドライト」という名作がある。
中年のくたびれた運転手役のジャン・ギャバンとフランソワーズ・アルヌールが安宿件ドライブインのウェイトレス役をしていた。
二人の道ならぬ恋。
物憂げな音楽と共に結末のやり切れなさを今でも思い出す。
「浮雲」と共に「ヘッドライト」は庶民が生活に疲れた様子を哀愁を込めて上手く描いている。
どこにでもいる等身大の人たちの姿だ。
アメリカ映画の主人公のように強くて健やかな姿は何処にもない。
そこにはうらぶれた人たちが佇んでいるだけだ。



フランソワーズ・アルヌールは私に女性の美しさを初めて教えてくれた人だった。
彼女の映画はその後何本も観た。
フランソワーズ・アルヌールのブロマイドと映画「ヘッドライト」のレコードジャケットはスマホで撮った画像である。


「天井桟敷の人々」という国宝級のフランス映画があるが、この映画も庶民の生活を事細やかに描いている。



1945年(昭和20年)に作られた映画だ。
この時代によくこのような映画を作ったものだと感心する。
今のウクライナのようにフランスはドイツに破壊つくされた。
それにも負けず楽しいモノ優れたモノをフランス人は作ろうと頑張った。
戦争という暴力に打ち負かされたやるせなさはあるが、それでもまた蘇る強さを人間は持っていることをここに挙げた映画等は証明している。
アメリカ映画がどうあがいてもマネできない別の意味の豊かさがヨーロッパ映画と日本映画にはある。
それは長く戦火をかいくぐってきた人たちの苦しみの結晶であるのかも知れない。
苦しみが希望に変わっていくその過程が、国でも人でも一番綺麗で輝いている時なのだろう・・・・