芸能人がテレビ番組で道徳、人の道を説いているのをよく見かけるようになった。
なぜ芸能人がと思うが、人の道を説くのは悪いことではない。
誰でも道に迷う。
そのような時、誰かのアドバイスや、道案内が役に立つからだ。
しかし自ら特定の人に聞きに行くのなら分かるが、人の道から外れたような生き方をしているであろう芸能人が、テレビ番組で得々と我々視聴者に人の道を説くのはどういうことか?
以前の芸能人はその辺の処はわきまえていたはずだ。
芸能という何の役に立たないことをしていて、人様から貴重なお金をいただいているという恥ずかしさ、引け目が彼等達にはあった。
職業差別的な考えではなく、自分たちは自由な生き方しかできないと思っていたのだろう。



だからこそ、そこに引け目があった。
それが何時の頃からか、芸能が高い位置の職業に思われるようになってから、芸能人が素人の人たちに説教をするようになった。
昔から芸能界で働く人たちは、自分たちを半分ヤクザ者と思っていたはずだが・・・・
最近芸能界で問題が多いのは、自分たちのことを、ヤクザな道で生きる者と悟っていないから、いろいろな事が起こるのかもしれない。

ヤクザな道といえば、特別な仕事をしている人たちにもいえる。
画家や小説家や映画監督もそうだ。
この人たちは名前が出るまで、まともに食べてはいけない職業だ。
実家が裕福なら別だが、女性に食べさせてもらっている人も多いのである。
つまりヒモ生活であり、ヒモ人間である。
自分は芸術家気取りでも、実体はヒモでしかない。
そんなヒモだった人間が、名前が出ると、昔のことを忘れて、したり顔で人生論まで述べたりする。
まるで昔の無頼派気取りである。
彼等は女の生血を吸っている半分ヤクザでしかないのだが・・・・
実際画家や小説家、映画監督がタマゴの時など、ヒモ生活をしていた人は案外多い。
しかしそれを恥だと思ったら、その道へは進めないのだろう。
彼等は仕事の為なら極めてエゴイストな人間になれる人たちだ。
だからヒモになっても恥だと思わないのだろう。
しかしそれでも昔の芸人さんのように、一抹の恥ずかしさや引け目を感じたらどうかと思う。 
その感覚がない彼らは、ヒモ生活を勲章のように感じている特異な人たちであるのかも?
でも、実際、それらの人たちが芽が出る人は滅多にいないのが現実だ。
多くの場合はヒモのまま終わってしまう。
女性の健気な努力も、多くの場合は実を結ばないのが悲しい。

昔の芸能人は重々自分たちの分をかっていた。
だからテレビや週刊誌でも分を外したようなことは言わなかった。
三波春夫さんではないが、お客様は神様という考え方をしていた。
この考えは大げさではないし、自分を卑下しているわけでもない。
舞台に立つ者はお客様が神様でないといけないのだろう。
そのように考え、自分たちを律し、半分地獄のような世界をお客に見せないように努力していたのかも知れない。

吉本には笑いを教える学校がある。
ダウンタウンさんはその学校の出身だ。
昔のように師匠がいる漫才師ではない。
だからダウンタウンさんには師匠と言える先輩がいない。
師匠の背中を見てこなかった芸人さんである。
それだからこそ、怖い物知らずの芸風を保てたのかも知れない。
また早くに売れたことも良い方に味方した。
どこか気負った処が上手く時流に乗ったのだろう。
今までの古い笑いではなく、新しい笑いのように見えたのだった。
私は少しも笑えなかったのだが、その笑いが新しいように感じた人たちもいたようだ。
紳助さんやダウンタウンさんの笑いの根っこは、弱い物いじめの笑いである。
私のように吃音で子供のころから苛められてきた人間には、彼らの持っている苛め体質が肌で分かるところがある。
吃音で笑われた経験が多くあるからだ。
苛められた人間は誰かを苛めるのと同じで、笑われた人間は誰かを笑い者にしたくなるのだろう。
それが一番弱い人間に向かう。
障害者には向かわないであろう嘲笑が、吃音には向かうのである。
しかし昔は障害者であっても笑い者にしていた時代があった。
松竹新喜劇の藤山寛美さんが知的障害者のマネをして笑いを誘っていた時があったのだ。
台本がそうだったから仕方がないが、昔の笑いは人を傷つけるものが多い。
障害者を笑って、自分はまだ誰かを笑えると安心するのだろうか?
でもそれは嘲笑であって、心底の笑いではない。
卑しい笑いである。
その卑しい笑いの伝統はまだ残っている。
吉本興業にもその伝統はある。
ダウンタウンは新しい笑いを求めていたのかも知れないが、吉本伝統の笑いを脈々と受け継いでいたように思える。
私はその吉本の下品な笑いが嫌いだった。
志村けんさんの芸のように腹の底から笑えなかった。
それでも紳助さんは時折エスプリの効いた笑いを飛ばしていたのだが、
底にある弱い者虐めの芸は変わらなかった。

最近松本人志さんのことが世間を騒がしている。
事実かどうかは分からないが、このようなことは昔の芸能人なら、当たり前のようにあっただろうと思う。
でもそれは素人の人たちに分からないようにしていた。
遊ぶ場所も限られていたのだろう。
無茶をしても許してもらえる場所で、素人さんに迷惑をかけないようにしていたのだろう。
今は素人か玄人か分からない人たちが多いらしいが、それでも気を付けるに越したことはない。
紳助さんの時もそうだが、今回もダウンタウンの存在を面白く思っていなかった人たちが多くいたのだろう。
報道されていることが事実なら、松本さんが責められても仕方ない。
だがそうでない場合はどうなのだろう?
松本さんにダメージを与えることだけが目的だったのか?
どちらにしても誰かが動いたことは確かだ。
仕掛け人は分からないが、文春だけが動いたことではないはずだ。
影の仕掛け人がいるはずである。
仕掛けた動機は恨みか、それともお金か?
お金なら沢山持っていそうだけど・・・・・・

先にも書いたが、コンビニの前の地べた座っていたいたような兄ちゃんが、テレビで我々を説教をしてくる。
それも時代だと言えばそれはそれでそうだろう。
だが我々視聴者を彼等芸能人は馬鹿にしてはいないか?
テレビ局がそのような演出をしているのも分かるが、芸人さんも少し調子に乗っているように見える。
真面な生活が嫌いで笑いの仕事をしているのに、なぜ素人を笑える。
芸能人がお客を馬鹿にするようになったら、それはもう芸能人として終わりではないか。
大げさではなくお客さまは神様なのだ。
神様がいるから、芸能人は舞台で演じられるのである。
この前、アホで売っていた坂田利夫さんが亡くなった。
今では珍しいアホの芸一筋であった。
誰にもマネできないことだ。
最近は馬鹿というか、アホになりきれない芸人さんが多すぎる。
間寛平さんもそう言っていた。
中途半端なアホにもなり切れない人間が、人を笑わせることができるのだろうか?
人を貶める卑しい笑いなら別だが、本当に腹から笑える芸を磨いてほしい。
でももう遅いかも知れない。
視聴者を馬鹿にするような芸能人が多くなりすぎた。
そのような芸人を多く生み出してきた吉本興業も、そろそろ終わりの始まりに近づいてきているのかも知れない。