私はかなり吃る。
だから障害者手帳を申請しょうかと思ったことは一度や二度ではない。
試しに耳鼻科で自分の吃音の程を調べてもらったことがある。
何時もはよく吃るのに、そんな時にがぎってすらすらと言葉がでてくる。
まず、自分の名前や生年月日、住所を言い、発音に異常がないか本を渡され朗読をした。
その後医師による質問に答えた。

診断の結果は発音の異常は無く、吃音も心配するほどの事も無いというものであった。
診断の結果を聞いてホットしたような反面、ここでも私は見放されてしまった様な気持ちになった。
学校や職場でも自分の居場所がなく、障害者の枠なら私を受け入れてくれると思っていたのに、ここでも私の居場所はないのかと恨めしく思ったのだった。
本当に自分はなんて宙ぶらりんな存在かと思った。
一方では障害者であり、一方では障害者ではない。
吃音者の団体、言友会では一時、身体障害者5級を新たに設けてもらう運動をしていた時期があった。
私が耳鼻科で診てもらったのは、身体障害者手帳を申請するかどうかを決めるものである。
しかしこれがなかなか難しかった。
耳鼻科の先生も普段の私の吃音状況を知ることができないからだ。
これでは何度病院に足を運んでも障害者手帳を手にすることはできない。
私もそうだが、吃音者の場合、以前は身体障害者手帳を申請するのが常だった。
これはなかなか受けてもらうのが難しく、最近は発達障害者の枠で精神障害者手帳を申請する人が多いようだ。
その場合は耳鼻科ではなく、精神内科で診て貰うらしい。
私の場合、精神内科で診て貰って、精神障害者手帳を申請ができたであろうか?
吃音というくくりも個人差がとても大きくて、これが吃音だと決めにくいところもある。
精神疾患も今では幅がとても広く、発達障害に自閉症と一概に言っても何処までが発達障害で、自閉症の範疇に入るのかも分からない。
また吃音が何故発達障害枠に入ったのかも分からない。
理解出来てない吃音者も多いと思う。
私もその一人だが、そんな悠長な事を言っていられない切羽詰まった吃音者もいる。
身体障害者手帳が難しいのなら、精神障害者手帳でもいいという吃音者もいる。
一方は身体障害者手帳、片方は精神障害者手帳。
吃音者としてはやはり精神障害者手帳を申請するのは二の足を踏むのだろう。
同じ障害でも体の障害と、心の障害では差があるようだ。
それはやはり他人からどう思われるかというものだろう。
しかし、他人からどう思われるかと心配するような人達は、もともと障害者手帳を申請する気はないはずだ。
どちらかといえば自分は障害者ではないではと思っているから。
しかし本当にそうなのだろうか?
吃音は障害ではないのか?
吃音者なら誰もが吃音は障害だと感じているはずだ。
ではなぜ、吃音を持つ人間が障害者ではないのだろうか?
矛盾が生まれる。
吃音が軽い人間も、重い人間も悩みは同じだ。
吃音者同士で差別があってはならないし、区別もあってはならない。
今現在死ぬほど悩んでいて、切迫している吃音者は精神障害者手帳でも身体障害者手帳どちらでもいいのである。
自分の生活が危うくなるのを助けてくれるなら、どちらの障害者手帳でもいいように思う。
吃音には殆ど分からないような軽い人もいれば、反対に自分の名前を言うのも大変な重い人もいる。
吃音者同士相手をどう思いやる気持ちがあるか試される問題でもある。
言友会は良く出来た組織ではあるが、限界もある。
吃音者も戸惑っている。
知らぬ間に吃りが発達障害者になったのである。
最近はネットで吃音に関する情報を簡単に得られる。
組織に属さない吃音者にはとても助かる。
音の情報も以前と比べると、とても豊かになったし相談窓口も多くなった。
「ひとりぼっちの吃音者」という言葉を早く死語にしたいもだ。
だから障害者手帳を申請しょうかと思ったことは一度や二度ではない。
試しに耳鼻科で自分の吃音の程を調べてもらったことがある。
何時もはよく吃るのに、そんな時にがぎってすらすらと言葉がでてくる。
まず、自分の名前や生年月日、住所を言い、発音に異常がないか本を渡され朗読をした。
その後医師による質問に答えた。

診断の結果は発音の異常は無く、吃音も心配するほどの事も無いというものであった。
診断の結果を聞いてホットしたような反面、ここでも私は見放されてしまった様な気持ちになった。
学校や職場でも自分の居場所がなく、障害者の枠なら私を受け入れてくれると思っていたのに、ここでも私の居場所はないのかと恨めしく思ったのだった。
本当に自分はなんて宙ぶらりんな存在かと思った。
一方では障害者であり、一方では障害者ではない。
吃音者の団体、言友会では一時、身体障害者5級を新たに設けてもらう運動をしていた時期があった。
私が耳鼻科で診てもらったのは、身体障害者手帳を申請するかどうかを決めるものである。
しかしこれがなかなか難しかった。
耳鼻科の先生も普段の私の吃音状況を知ることができないからだ。
これでは何度病院に足を運んでも障害者手帳を手にすることはできない。
私もそうだが、吃音者の場合、以前は身体障害者手帳を申請するのが常だった。
これはなかなか受けてもらうのが難しく、最近は発達障害者の枠で精神障害者手帳を申請する人が多いようだ。
その場合は耳鼻科ではなく、精神内科で診て貰うらしい。
私の場合、精神内科で診て貰って、精神障害者手帳を申請ができたであろうか?
吃音というくくりも個人差がとても大きくて、これが吃音だと決めにくいところもある。
精神疾患も今では幅がとても広く、発達障害に自閉症と一概に言っても何処までが発達障害で、自閉症の範疇に入るのかも分からない。
また吃音が何故発達障害枠に入ったのかも分からない。
理解出来てない吃音者も多いと思う。
私もその一人だが、そんな悠長な事を言っていられない切羽詰まった吃音者もいる。
身体障害者手帳が難しいのなら、精神障害者手帳でもいいという吃音者もいる。
一方は身体障害者手帳、片方は精神障害者手帳。
吃音者としてはやはり精神障害者手帳を申請するのは二の足を踏むのだろう。
同じ障害でも体の障害と、心の障害では差があるようだ。
それはやはり他人からどう思われるかというものだろう。
しかし、他人からどう思われるかと心配するような人達は、もともと障害者手帳を申請する気はないはずだ。
どちらかといえば自分は障害者ではないではと思っているから。
しかし本当にそうなのだろうか?
吃音は障害ではないのか?
吃音者なら誰もが吃音は障害だと感じているはずだ。
ではなぜ、吃音を持つ人間が障害者ではないのだろうか?
矛盾が生まれる。
吃音が軽い人間も、重い人間も悩みは同じだ。
吃音者同士で差別があってはならないし、区別もあってはならない。
今現在死ぬほど悩んでいて、切迫している吃音者は精神障害者手帳でも身体障害者手帳どちらでもいいのである。
自分の生活が危うくなるのを助けてくれるなら、どちらの障害者手帳でもいいように思う。
吃音には殆ど分からないような軽い人もいれば、反対に自分の名前を言うのも大変な重い人もいる。
吃音者同士相手をどう思いやる気持ちがあるか試される問題でもある。
言友会は良く出来た組織ではあるが、限界もある。
吃音者も戸惑っている。
知らぬ間に吃りが発達障害者になったのである。
最近はネットで吃音に関する情報を簡単に得られる。
組織に属さない吃音者にはとても助かる。
音の情報も以前と比べると、とても豊かになったし相談窓口も多くなった。
「ひとりぼっちの吃音者」という言葉を早く死語にしたいもだ。