多幸感の探求。


私の中の話だが、多幸感というものへの興味と実践をこの言葉で表した。


きっかけは、大学時代にハマったストロングゼロという酒である。面接のストレスから逃れるように、何本も飲み、酔ってその日の出来事を忘れようとした。だが、次の日には、アルコールが抜けて絶望もしたもんだ。


だが、このアルコールというものの、幸せを強制的に生むものに、興味を惹かれ、アルコールだけでなく、いろいろな意味で危ないものについても調べるうちに、多幸感というワードにたどり着いた。


多幸感は、その言葉通りだが、それがインスタントに得られることに気がつく。そのせいで、社会からドロップアウトするような思考になりがちになったがね。だが、まだ社会で生きている。しかし、なによりも、幸せは主観的なものであることを理解したので、社会的な成功がいかに無意味であるのかを知ってしまったのである。それが今のフーテンな生活につながることになった。周りの人が、幸せというものの手段を難しく考えているが、私はそれをもっとシンプルに捉えようとした。


実際のところ、多幸感を得るには、運動であったり、食事であったり、あとはサウナ。朝日を浴びることも大事。そういう、社会的に健全な多幸感もあるわけで、かなり意識をした。中でも重要なのが、マインドフルネス。これは、このブログのメインテーマでもあり、心の檻から開放されるために重要なことである。それにこのマインドフルネスによって人生の悟りまで開いた。脳というものの可能性をもっと信じるべきだね。


ただ、それだけでは飽き足らず、クスリによる多幸感に対しても興味を惹かれた。アルコールだったら、鎮静、脳内麻薬の遊離といった作用で幸せになる。しかし、そういったクスリは大抵、脳を破壊してしまう。だから、やめたほうが良いのだという考えに至った。それでも、人生に飽きた自分は相変わらずストロングゼロを飲んでる。


だが、クスリによる多幸感を探求する中で、一つ重要で、最上級のものを見つけた。それは、幻覚剤である。幻覚剤は、セロトニンに作用して、起きていながら、夢を見るような感覚にさせるといった感じだろうかね。そして、それによって、強制的に多角的な思考をし、悟りを開くきっかけを作る。要は高次のマインドフルネスだ。古代からシャーマンの儀式に使われたりなど、幻覚は人の文化に大いなるきっかけをもたらして来たのだろう。仏教ですら、クスリは使わないまでも修行による幻覚によって悟りを開いているように思える。この幻覚は、人をダメにするどころか、むしろ、人間の可能性を開くのである。これに勝るのはマインドフルネス以外に考えられない。


私はと言うと、最近DXMという、市販薬に含まれる薬をオーバードーズすることによって幻覚を得ている。これは、解離作用だから、幻覚剤としては下位だが、思考を巡らして、気持ちをリフレッシュするには十分すぎるほど効果的だ。これによって、私はさらなる幸福の高みを目指すことにする。


それにしても幻覚剤は、なぜこうも社会に嫌われるのかね。やはり異端を排除する社会の負の特性なのだろうかね。人のための社会のはずなのに、ますます社会で真面目に生きるのがバカらしく思える。