小さい頃から、

もう少しマシな顔だったら、


人生はもっと楽しいだろうと、

鏡に向かって、数えきれない程思った。


最近では、「人生それほど甘くない」という事が、

少しずつ分かってきてはいるが、

それでもまだ、

「美人は得」という気がしてならない。




ナタリーが容姿をバカにされ、


相手の歯を折るシーンがあったが、



当人が一番よくわかっていることを、


他人に指摘されるというのは、



本当に悲しいものだから、


ナタリーの気持ちはよくわかる。




私も幼い時、クラスの男の子から


気にしていることを言われたりすると、


本当にショックを受けたものだ。



言われなくてもそんな事くらい


充分にわかってるから、


できることならほっといて欲しいと思っていた。





人間というのは案外残酷な生き物で、

いろいろな物事に対し、

「美しいか美しくないか」ということで、

差別があったりするものだ。



そしてそれが、


物事に対してだけじゃなく、

生身の人間に対しても同じなので、


私やナタリーのように

残念ながら美しく生まれる事ができなかった者は、


幼い時から、


その屈辱に耐えるという、

過酷な運命を背負わされる。



例えば、幼稚園のおゆうぎ会では、


クラスの中で一番カワイイ子供が、お姫様役に選ばれる。


今考えてみれば、



幼稚園の先生もいい大人であろうに、


あまりに露骨で、不人情過ぎやしないかと思う。



だいたい、「お姫様=美しい」なんていう固定概念を、


幼稚園児に植え付ける必要はないと思う。


実際には、ブスなお姫様だっていたかもしれない。


ただのひがみかも知れないが、



その方が夢がある。



だけど、現実はいたって厳しく、


どこにでもいるような普通の子供や、



美しくない子供は、引き立て役にまわされる。


これは大人だって同じである。



ナタリーがチアガールをやりたいのに、


タイガーの着ぐるみを着せられ、

その上、



誰かに突き飛ばされるシーンを観た時、



本当に心が痛んだ。



でも現実とは、そんなものである。


美しくないものは損するし、美しいと得をする。



現に私だって男性を選ぶ場合、


同じような人柄と能力だったら美しい方を選ぶし、


ナタリーもそうだった。



逆手に取ってみれば、

美しいものに心が惹かれ、


美しいものを大切にしたいという気持ちは、

この不健康な世の中において、

いたって正常な、

健康的な事であると思う。



かといって、


美しくないものを粗末にするのはどうかと思うが、

顔なんて性格と違って、


全く別物になるというのは、不可能である。



だからこの際、


潔くこの顔で、立派に生きてやろうと思う。



そして、ナタリーがそうだったように、


私も、

「人は人に愛されること」で


自信を持つもことができると思う。


これは同性も異性も関係ない。



私は美しくないから、

誰かから深く愛されることは無理かもしれないが、


沢山の人を心から愛して、

誰かに自信を持ってもらう事なら、


できるはずだ。



だから、

美しい人になるのは無理でも、

大きな愛で、


人を愛し、包みこめる人間になりたい。