「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ尾張名古屋は城で持つ」
は、江戸時代に流行した俗謡の一節です『城で持つ』とはどういう意味なのか、
それはお城のお陰で繁栄しているということらしいです。
インスタ映えが期待できそうな『@NAGOYA』のオブジェがありました。
曇り空ですが、天守閣に一対の金の鯱(シャチホコ)が輝いていました。
名古屋城といえばやはり金のシャチホコですね。
名古屋城は金鯱城(きんこじょう)と呼ばれることもありますね。
あの石川五右衛門が大凧にのって、名古屋城の純金の鯱の鱗を盗もうとしたという伝説もありますね。
五右衛門は捕まったときに鯱の金の鱗(うろこ)を1枚もっていたとも伝わっていますね。
石川五右衛門と金のシャチホコがお城の入り口にある金シャチ横丁にありました。
巨大な内堀に囲まれた五層五階地下一階の天守閣、史上最大級の延床面積をもった巨大な城です。
名古屋城は、大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられます。
残念ながら、昭和20年5月14日の名古屋大空襲で、
本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失してしまいました。
現在の本丸は戦後に再建されたものです。
本丸とともに空襲で焼失した本丸御殿を忠実に再現した復元工事は2018年に完成しました。
復元には10年の歳月をかけて豪華な御殿建築の最高峰といわれる姿が復元されています。
創建当時に、前回と同様に現代職人が伝統技術を活かし、豪華できらびやかな本丸御殿が再現されています。
外観からはじまり、壁の装飾、襖絵、金具、欄間、天井に至るまで、忠実に再現された装飾が施されていました。
欄間はきれいに色付けされた彫刻で、表と裏が異なるは姿はどうやって作られたのかも分からないほどです。
職人の技術の素晴らしさが伺えます。
襖絵も金箔を使用した豪華な姿です。
江戸時代初期に完成したといわれる武家風書院造という建築様式の特徴を再現していました。
廊下の襖絵の虎も睨みをきかせていました。
襖の金具にも徳川の家紋がほどこされていました。
本丸へ通じる門の両側には石垣が積まれています。
門の正面にも石垣がありました。
中央に積まれた巨石の大きさは、手前の観光客と比べていただければ一目瞭然です。
人よりも大きな巨石が積まれています。
修復工事のため内堀には水がありませんでしたが、そのお陰で石垣を下から上まですべて見ることができました。
あらためてその高さに驚かされます。
この石垣を積み上げたのが、築城の名手とされる加藤清正公です。
清正公は熊本城の石垣も積んだといわれる有名な武将です。
巨石の上に登り、扇で石曳の音頭を取る姿が清正公です。
大型クレーンやトラックなどなかった当時、巨石は人力で石曳きされてきました。
石曳には清正自らが巨石の上に乗り音頭を取って力をあわせて石を引かせたと言われています。
清正が音頭を取る巨石も巨大ですね。
慶長15年(1610年)肥後熊本から2万人の工事人を名古屋に呼び寄せてわずか3ヶ月で石垣工事を終えたと言われています。
これだけの石積みを3ヶ月で完成させるのは、現代の土木技術をもっても可能なのかと疑問を持ってしまします。
石垣を作り終えた名古屋城は、徳川家康によって慶長17年に天守の早期建設を命じられます。
すぐに大規模な工事が行われ、こちらもわずか3ヶ月で上棟しています。
慶長20年に大阪夏の陣が始まったことを考えると家康は大阪城を攻めることを前提に名古屋城の建築を急いだとも考えられますね。
本丸の大天守石垣は、扇勾配とよばれ高くなればるほど勾配が急角度になる形状です。
城は空襲で焼け落ちてしまいましたが、石垣だけは当時の姿をとどめ続けており、
石曳をした人々の心意気が今に伝えられています。
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アスザック株式会社 インフラエンジニアリング事業部 海外石材チーム
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