今年話題になるだろう人物が、渋沢栄一さんではないでしょうか。
日本の資本主義を築いた人物で、新しい1万円札の顔になっていますね。 

(ウィキペディアより)


渋沢は、1840年2月に埼玉県深谷市血洗島で生まれました。
血洗島?すごい名前ですね。 

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、米、麦、野菜の生産も手がける農家と商家を営んでいました。
それには、原料の繭の買い入れから製造、販売まで行い、そろばんをはじく商才が求められました。
栄一は、父と共に、信州や上州まで製品の藍玉を売り歩き、原料の藍葉の仕入れもしていました。
14歳の頃には、一人で藍葉の仕入れに出かけるようになったそうです。


埼玉県から群馬県を通り、長野県へ入るには、険しい峠を越さなければなりません。
鉄道が走る碓氷峠と渋沢が通った内山峠です。


内山峠には、日本のグランドキャニオンと言われる山があります。
山頂に平らな大地があるような岩山が「荒海に浮かぶ不沈航空母艦」ともいわれる荒船山です。 


内山峠を超えると長野県佐久市です。
ここを目指して山深い峠道を商いのために歩いて越してきました。 



内山川沿いを下ってくると道はなだらかになり、佐久平に入ります。 



この街道の両側には、このような珍しい岩がいくつかそびえています。 





道路沿いの肬水(いぼみず)という地先に、公園の看板があります。
公園と言ってもこの珍しい岩山や神社などの総称で遊具があるような公園とは異なります。
肬水公園の看板の下に渋沢青淵(せいえん)の碑と書かれていました。 




渋沢青淵とは渋沢栄一の雅号で、渋沢が青年時代、家業のため信州、上州、秩父や東京近郊等を訪れていた19歳の折に、従兄の尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう、1830-1901)と「巡信紀詩(じゅんしんきし)」という漢詩を合作しました。

この詩文を、後に佐久の有志が渋沢の功績をたたえて1940年に石碑とし、刻みんだものが残されています。 



青年時代に藍玉の行商で東信地方(長野県の東側)を訪れた縁で、大正6年に講演で上田を訪れ、上田商工会議所には「温故而知新」の書を残されています。 



壁面に漢文を見るために、石の階段を登り、一人が立てるスペースを確保して詩文を読んでみますが、勉強不足で意味が理解できませんでした。 


それでも、ようやく大河ドラマのタイトルとなった3文字は見つけることができました。

「衝晴天」です。 





おおよその意味は「勢いは青天を突きさすようで、腕まくりして登り、気持ちは白雲を貫き通すようで手に唾をして行く」らしいです。

行商のため、険しい内山峠を越えてくる青年の姿が見えてくるようですね。 


わずか三文字ですが、バイタリティあふれる彼の人生そのものを表したような言葉ですね。

日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢が興した会社は、生涯500社を超えると言われていますが、社名を変えて現在でも日本を支えている大企業ばかりです。

その一部を上げると、みずほ銀行、りそな銀行、東京海上日動笠井保険、東京ガス、帝国ホテル、東宝、JR東日本、日本郵政、IHI、東洋紡、日本製紙、サッポロビール、アサヒビール、日本経済新聞社など錚々たる企業です。

春まだ浅く寒い季節ですが、初夏には新緑が、秋にはコスモスが美しい、渋沢栄一が青年時代に歩いた佐久内山峠でした。 

 

 

 

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アスザック株式会社 インフラエンジニアリング事業部 海外石材チーム

 

 

 

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