三沢さんが全日本プロレスで一選手としてだけではなく、それ以外の責任も背負うようになってから、私は陰で色々とお手伝いをさせて頂くようになった。
勿論、正式な仕事として依頼を受けていた訳ではないので、特にギャラを頂くこともない。それでも三沢さんにはそれ以前から大変お世話になっていたし、数え切れないほど飲みに連れて行って頂いたり、共に楽しい時間を沢山過ごさせて頂いていたので、とにかくお役に立てるだけで嬉しく思い、私もそれで満足していた。
勿論、当時の私は専門誌の記者だから、取材にはいつでも快く応じてくれていたし、ノーコメントなど一度もされたことはない。ある意味、信頼関係が出来上がっていたと自分でも思っていた。
そんなあるとき、三沢さんから突然こう言われた。
「鈴木クン、こっちがある程度落ち着いたら、ウチ(全日本プロレス)に来ない?」
中学生の頃から大好きだった全日本プロレスに、しかも当時からタイガーマスクとしてスター選手だった憧れの三沢さんから直接お誘いの言葉を頂けたのだ。これ以上の喜びはない。でも、素直に「ハイ、お願いします!」とはとても言えなかった。
なぜなら、それは私の性格にある。私の性格は、一言でいえばクソ生意気。共に仕事をした人なら分かって頂けるだろうが、私は相手が社長であろうが誰であろうが、言いたいことは言わずにはいられない。しかも投げかける言葉はすべて直球ど真ん中。
さすがに現在の歳になれば多少変化球を交ぜてコーナーをつく芸当も覚えてはいるが、当時の私にはそんな起用なことなどできやしない。上司へのゴマスリやご機嫌取りは大嫌い。そんなことをしてまで人に好かれようなんて思いはこれっぽっちも持ち合わせていない。
だからこそ、私の周囲は大抵、敵か味方に分かれてしまう。嘘のない付き合いを喜んでくれる人もいれば、生意気な奴だと怒り出す人もいる。
私自身は分けてるつもりはないのだが、私が嫌っていなくても相手が私を嫌っているのが分かれば、無理に取り繕おうとは思わない。
すると自然にそういう形になってしまい、自分は関係ないことでもなぜか主犯格に扱われ、いつも面倒事に巻き込まれてしまうのだ。きっと生粋の野良犬体質なのだろう。
そんな私だからこそ、典型的なピラミッド型の縦社会であるプロレス会社に入って上手くやっていけるはずがない。でも三沢さんのような心から尊敬できる人の下で一度は働いてみたい、二つの思いが交錯するなか、出した答えはこうだった。
「三沢さんが本当の意味でトップに立つ会社になったら、その時はお世話になります」
それがどんな意味を持っているのか、私の真意がちゃんと伝わったのかどうかも分からない。でもそれ以上、三沢さんは私に何も言わなかった。ただその後もこれまで通りの関係が続いていたので、恐らく私の気持ちは伝わっていたのだと思う。
それから数年後、三沢さんから全日本を辞めて新団体を作るという話を聞いた。細かな内容を聞けば、まさしく本当の意味で三沢さんがトップに立つ会社である。
「私の力は必要ですか?」
「来る?」
「お世話になります」
正直、本当は不安だらけだった。でもあの時の約束がある以上、そこに悩む余地はない。大恩ある三沢さんが必要としてくれるならば力になりたい、少しでも恩返しがしたい、そう思ったらあの時の約束を果たすしかなかった。しかし、実際に入社する前に早くも私の不安は的中した。
「鈴木さん、新しい会社に来るって本当ですか?」
入ることは三沢さんと小橋さん以外、私からは誰にも話していない。でも口止めされていた訳でもないし、これから身内になる選手からの質問だったので、正直に答えることにした。
「うん、行くよ」
「気を付けて下さいね、よく思ってる人ばかりじゃないですから」
「どういうこと?」
「ある人があいつはこれまで何もしてないくせに、俺たちが集めた金欲しさに横からしゃしゃり出てきやがった、って言ってましたよ」
「はぁっ!? 何もしてなくないし、金欲しさにって、俺は三沢さんと金の話は勿論、待遇の話も一切してないよ。三沢さんにすべて任せてるから。その決定に従うだけ」
「とにかくそういう人もいるってことですから、気を付けて下さい」
「言いたい奴には言わせておけばいいよ。俺は何一つ後ろめたいことはないから。分かってくれる人だけ分かってくれればいい!」
予想通りの展開に呆れた。しかし問題なのは陰口を叩かれたことよりも、折角の新しい会社に自分が入ることで揉め事が起こること。それを危惧した私は、三沢さんにこう申し出た。
「私が入ることを拒絶している方が上層部でいるようです。揉め事を避けるためにも、社員ではなくフリーの人間として使って頂けませんか?」
しばし沈黙の後、三沢さんはこう言った。
「いや、中に入ってやってくれ」
そこまで言って頂けるのなら、もはややるしかなかった。まだ事務所もない状況だったので、夕方になると三沢さんの指定する場所に出向き、連日連夜、旗揚げに向けての準備を始めた。
その場には私を拒絶していた人もいたが、私は信念を曲げて「宜しくお願いします」とこちらから頭を下げた。「宜しくね」不服そうな顔をしながらも、とりあえずその人も認めてくれたようだ。
当初旗揚げは10月の予定だった。だからまだまだ時間的には余裕があり、万全を期して臨めるはずだった。ところが、急遽「8月の旗揚げにしましょう!」とその人が言い出し、三沢さんもそれにGOサインを出したため、すべてが急を強いられることになった。
それでも、決まったことはやるしかない。事務所開きから旗揚げまでの1ヶ月、やることが山程ありすぎて、もはや私は過労死を覚悟するほどだった。
1日の平均睡眠時間は二時間、たまりかねて会社の隅のソファーで仮眠することもあったが、私が寝ている間、「コイツ、会社で寝やがって!」とある上役が怒っていた。
しかし、直接私には誰も何も言ってこないし、別に言ってくれば幾らでも言い返せるだけの事情があったので、とにかく私は目の前の仕事を少しでも減らすことだけに集中した。
ところが、自分の仕事だけに専念できれば、幾らでもこなせる自信はある。しかし明らかに畑違いのものまで持ってこられては、すぐに答えは返せない。直属の上司に尋ねたら、まったく関係のない話に切り換えられて答えは出さず。
またこうするあぁすると決定事項だけ伝えられて、それを実現するための調整、申請、打ち合わせはすべてこっちに丸投げしてくる。仕事はやれどもやれども減るどころか、日毎に増えていくばかり。
業者や担当者にせっつかれ、八方塞がりになり、仕方なく三沢さんに直接話し、了解を得て話を進めると、「これは誰が決めたんだ!?」と挙げ足とりをする始末。しかも私のいない時を狙ってやるものだからタチが悪い。
馬鹿馬鹿しい…、何度も絶望感を味わいながら、それでも“三沢さんを男にしたい!日本一の社長にしたい!”その一心だけで頑張ることができた。
幸い、一部の仲間が協力してくれて連日連夜の仕事三昧に付き合ってくれたが、相変わらず人の陰口と挙げ足とりしかしないような奴らがいたことで、旗揚げ前から心身ともに疲労のピークはとっくに越えていた。
“三沢さんに少しは恩返しできたかな…”
旗揚げ戦からこんなことを考えてしまった私は、ある意味、その時点で敗北者だったのかも知れない。しかし、何もないところから短い時間であの旗揚げ戦を作り上げたという自信は揺るぎないものとなった。
選手が最高の試合をするために最高の舞台を用意する、それがNOAHでの私の仕事だった。結果的にはたった1年半の在籍だったが、果たして三沢さんの力になれたのだろうか!?
その答えはもはや知る術はない。ただ、今でも三沢さんという存在は、私の人生の中でも特別な恩師の一人であることは言うまでもない。