私がまだ週刊ゴングの記者だった頃、あるプロレスラーから、こんな質問をされたことがある。
「プロレス界で、相手の技を安易に受けない"伝説のBIG3"って誰だか知ってる?」
「……いや、想像もつかないです」
「ブルーザー・ブロディ、ミル・マスカラス、長州力…(笑)」
後日、昔のビデオで過去の名勝負を振り返り、実際にチェックしてみたのだが、確かに相手の間合いからサッと身を退いて攻めをスカしたり、技を受けるときに身体を捻ってあたりを弱めたりするなど、安易に相手の技を受けまいとする意思がそのファイトからは伝わってきた。
ファンの頃からバリバリの全日本派、しかも鶴龍&四天王プロレス全盛期を絶大支持してきた私にとって、"相手の技の持ち味を半減させてしまうなんて、プロレスラーの、しかもトップレスラーとしてどうなんだ?"と当時は怒りにも失望にも似た複雑な感情を抱いていた。
だが冷静になって日本プロレス史を振り返ってみると、むしろ逆にそれもある意味、必要なことなのではないか、と思えるようになっていた。
確かに私が一番好きなプロレスは、鶴龍や四天王などがやっていた相手の技から一切逃げない、むしろ完璧に受けきることでその実力を誇示するスタイルである。
それがあるからこそダイナミックな攻防となり、試合はより完成されたものになっていく。かつての鶴龍対決、四天王対決はその典型といえるだろう。
しかしかつての日本プロレス界は、それがあくまで全日本のお家芸的スタイルであって、他の団体とは明らかに異なるカラーとして突出していた。
だが日本プロレス界が他団体時代に突入して交流が頻繁化すると、いつしかそのスタイルがスタンダードになり、もはやどこの団体でも似たようなファイトをするように。そこが私にとっては大いに不満なのである。
何も真似をするなといっているのではない。良いものは吸収し、悪いものは改善していく、それは何事においても大事なことだ。ただプロレスとはいろんな形があり、いろんな選手がいるからこそ、それがぶつかり合うことで生まれてくるものを見る楽しさがある。
違ったスタイルの選手がぶつかり合うことでどんな攻防になるのだろう、どんな試合になるのだろう、そこに想像する楽しさが加わり、ワクワクが生まれてくる。
ところが最近の日本プロレス界は誰もが胸を突き出して相手の打撃を真っ向から受け、誰もが安易に相手の投げ技を食らっていく。
前座からメインまで似たような技が次々と飛び出し、似たような攻防の連続。もはやどの団体のどの選手の試合を見てもあまり代わり映えしない印象すらある。
思い出してほしい、かつて新日本とUWFが初めて対抗戦をしたときを。ロープに飛ぶことはもちろん、投げ技も食らうまいと足を掛けたり、サブミッションに切り替えたり、そこには実に緊迫感のあるスリリングな攻防が存在していた。
全日本vsジャパンもそう、新日本vsUインターのときもそう。明らかに異なるスタイルのぶつかり合いは常に緊迫感に溢れ、大いなる刺激をもたらしていた。あのドキドキ、ワクワク感が現在はどこの団体同士の顔合わせであってもまったく感じない。
プロレスというものに対するポリシー、概念の違いによってスタイルの違いが生まれてくる。それは凄く大事なことなのではないだろうか? それがあるからこそ、闘いはシリアスかつリアリティーのあるものになっていくのではないか?
別に団体個々で見ていっても、所属選手全員が同じスタイルにすることはない。むしろ違った個性をぶつけ合うからこそ、それぞれを支持するファンの気持ちもより高ぶって熱くなっていく。
だから安易に技を受けようとしないトップレスラーって、実は非常に貴重な存在なのではないかと思えたのだ。
『GHCの真実2020』