みなさん、こんにちは…

Twitterを見ておられる方はご存知と思いますが、少し前からモーレツに疲れています。
そして、これ以上になく憤っています。
正直なところ、「定型様社会」に対する、怒りとやるせなさと無力感にさいなまれています。

このブログでは、よほどのことがない限り、定型様社会に向けた否定的な内容を書くことは最小限にとどめています。(そもそも、普段は「定型様社会」なんていう、嫌味な表現すらしませんから、今の私の心の状態を想像していただけると思います。)

けれど…
今回は、その気持ちを保つことすら限界です。

もちろん、定型の方、全てがそのような人ばかりでないことは、重々承知しています。
Twitterやこのブログでつながった方々など、一生懸命に歩み寄ろうとしてくださる方がいることは、知っています。

けれど…
現実の生活の中で、そういう方々に出会えない。

出会うのは、信用できない人ばかり…。
詳細をココで書けないことが、どれだけくやしいことか。

今、私は「定型様」社会に対してこれ以上にない憎悪の念を抱いています。
こんな悲しいことをこのブログで書かなければならないことが、ほんとうに悔しいです。


けれど、今回は書きます。

定型の方で、歩み寄ろうとしてくださっている方へ。

常に架け橋であろうと努力をしている私ですら、このような気持ちを抑えられなくなるような状況があることを知ってください。
そして、それが、多くの発達障害の人がおかれている現状なのです。


以下、非常に激しい言葉が続きますので、ご気分を悪くされる可能性があります。
気分よく読める保障は一切ありません。気分悪くなる保障ならできます。
それでも読みたいという方は、自己責任で読んでください。

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いったい定型様は何様なのでしょうか?

私に「人の気持ちを読めない」と散々言っておきながら、
自分達は私の気持ちのかけらも読んでないじゃないですか?

自分達ができることは、私ができなければ責めて「ダメ人間」のレッテルを貼るくせに
私ができて自分達ができないことを責めれば「酷いヤツ」のレッテルをはる。

私が「なぜできないのか」と責めるのは、
あなた方がやってることとまったく同じことしてるだけなのですよ?

いや、あなたがたと同じですらない。

なぜなら、私が反撃をするときは、いつも単独。
同じ感覚をもつ仲間がそばにいないから。

定型様はいつも大勢で「みんなが」という呪文を唱えながらやってくる。

私は、常に一人で大勢に立ち向かっています。

卑怯なのはどっちですか?
酷いやつはどっちですか?

そんなことすらも気づけないような鈍感な心しか持たない
定型様の感覚の何がすばらしくて偉いんでしょうか?

ただ単に数が多いだけでしょう?
「人の気持ちがわかる」とおっしゃいますが、
単に、自分の感じ方が他の多数の人間と、偶然に一致しているだけでしょう?

ほんとに人の気持ちが読めるんだったら、
なんで客の気持ちも汲めずに怒らせることができるんですか?

ほんとに人の気持ちがよめるんだったら、
発達障害の私の心だってよめるはずでしょう?
読んでいただけてるとは思えませんよ?

「空気」、「空気」というけれど
「空気」読めるのがそんなに偉いことですか?

「いじめ」は、空気読んで相手の気持ち読むからこそできるんでしょう?

相手の気持ちを読んで、
「こうすれば嫌がるだろう」
「こうすれば苦しむだろう」
「こすれば辛いだろう」
ってわかって、狙ってやってるんでしょう?

わかっていてやるって、最低ですよね?

いじめのターゲットを決めるのも、「空気」でしょう?
なんとなく、リーダーがそぶりを見せたのを感じ取って、ターゲットを決めるじゃないですか。

そして、そのターゲットにされるのは私。

何度となく「空気」とやらに人生を踏みにじられてきた私にとって、
「空気」なんて読みたくもないもの。

なのにお偉い先生方や世の親や支援者は、
「空気」を読めることがいかにすばらしいかを説き、
「空気」を読むことこそが最高の能力であるかのように洗脳しようとする。

私にとって、
自分の人生を踏みにじるようないじめの原因になった「空気」。
断れない状況に追い込んで、心をめちゃくちゃに潰した「空気」。

そんなもの、私が読みたいと思えるわけがないでしょう?
そんなもの、私がすばらしいと思えるわけがないでしょう?

「空気」読むのがすばらしいなんて、能天気に言えるのは、
自分自身が「空気」に殺されたことがないからでしょう?

「空気」に殺され続けてきた私に、「空気を読むのはすばらしい」って言葉が
どれだけ「残酷」で「傷つける」言葉であるかわからないですか?

「空気」を読んで、
「黙っている」ことも
「傍観者」となることも
「いじめ」なのです。

いじめられている人からすれば、そこにいる人全てが「いじめ」の当事者。

「空気」を読んで、
「黙って」誰かに仕事が振られていくのを待つのも
「誰か」が仕方なく仕事を引き受けるように仕向けて
「あぁ助かった」と安堵するような人も
「いじめ」なのです。

その「誰か」が倒れたとしたら、それは定型様があがめる「空気」とやらが殺したんです。
その「空気」とやらを読んで行動をした「あなた」が殺したのです。

無自覚に「空気」を読んで自分の身を守ることだけに終始している自分を恥じることもなく、
この人生の中で、そんな「空気」に、幾度となく殺されてきた私達に「空気」を読めと
言えるその無神経さはなんなのでしょうか。

その言葉が、私にとってどれだけ残酷であるか気がつかないのでしょうか?

その言葉が、私にどれだけ「残酷」な響きを持っているのか想像すらできないなら
私に対して「想像力の欠如」などという言葉を使う資格などありはしない。

私は、今後の人生でどんなことがあろうとも「空気」を読もうとは思わない。
他人からバカだと言われようが、
人生がボロボロになって
生きることがかなわなくなったとしても


私は、決して「空気」など読みはしない。





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