「母性神話」女性なら必ず母性がある。母性があるから子育てのつらさを幸せと感じる、子供のすべてを母親が知っている‥‥、こんな理論的ではないからこそ、神話として語られる。この神話の裏の話として、子供の責任は母親、子供の性格、病気、障害、すべては母親がちゃんとしてれば、大丈夫なはず。父親は母親のサポート(手伝い)をしていれば十分で、それよりもお金を稼いでくればよい、というのが常識とされました。これが私たち50代、40代ぐらいの女性は感じたことも多いはずです。

 今、共稼ぎで夫婦で同じ立場で築く家庭をもつ若い人にはこの神話はないか、というとより隠れて、より曖昧ながらしぶとく残っているように感じます。男女平等に、教育を受け、仕事をし、ともに同じ立場でいらたのに、結婚したとたん、または親になったとたん、上下が、役割分担と納得できない差が生まれる。もちろん、お互いの気遣いの中生活できている夫婦も多いだろうが、違いに戸惑う女性も多いのではないか、と思う。社会にある母性神話がまだ堂々と語られる現状が若い母親達を追い詰めているのではないか、と思う。そこで、このことにつ考えてみたい考えてみたい。

 

 母性神話に限らず、女性の性関係、またはあり方の話の多くは男性がやりやすいように、女性を型にはめるようにできているのではないかと思います。世界的に、大げさかもしれませんが、歴史的にどこであっても男性が女性の上に立つ社会がありました。女性の社会進出はもちろん、権利、相続はもちろん何かを保有することさえ許されない時代を多くの国がもっています。これは、食料をはじめとする多くの生活の必需品を得るのに、物理的な力がある方がよかった時代、男性がより多くの成果を上げられたことから来るのだと考えます。

 今現在でも、握力や筋力、体力は統計的に男性の方があります。もっと大昔では、必要な力がある男性を優、力のない女性を劣としたのです。今では、それを区別、または差として考えられていますが、長い間、優れた男性、劣った女性として認識されていました。そして力を持った男性はそれを強固にするような態度で女性を囲い込みました。子を産まない男性は常に子が我が子かどうかが不安で、女性を監視し、他の男性との接触を減らすことで父親の特定したのです。上流階級では外で働くことを禁止し、家に閉じ込めることで、働かざるを得ない人は夫婦や家族で働くことで監視しました。ただ、この夫婦がともに働く場合では、女性の働きがなければ成り立たない場合もあり女性が仕事の担い手として尊重されることもあったようです。

 時代が進むにつれ、家庭より離れた場所で男性が働くことにより夫婦が常にいる状況が崩れてきます。外で働く男性、家庭で働く女性。これは役割分断として考えられるのではなく、優劣とされました。外貨(給料)を稼いでくる男が偉く、家庭でする仕事、掃除、料理、育児は、劣った女性が家庭で奉仕するものとして対等な夫婦関係は存在しませんでした。夫親の介護という本来は妻がしなくてもよいことであっても、嫁の当然の義務として押しつけてきました。外で働く余裕を男性達は女性に与えたくなかったのかもしれません。女性の外での働きは低賃金です。出産で仕事からリタイアした女性が復帰するとき正社員になるのは難しく、多くの母が従事するパート、短時間短期間の仕事の時給が、上がってきたのはここ数年です。男性の給与がなければ生活していけないように、離婚する選択が女性の貧困につながるようになっていました。男女の給与は未だに同一と言いがたい。同じ学歴で同じ企業に勤務した場合は同一であるかもしれませんが、昇進や産休後の給与人事体制などを含めると、男女が同一であるとはまだまだ言えないと思うのです。

 私たちは女性参政権や男女平等がもたらされたのは、第二次世界大戦の敗戦のおかげであることを覚えておかなければならないのです。自分の力で勝ち取った他国よりも、運動自体はあったにしても当事者以外の他からもたらされた日本にとってその意識は低いように思います。そのために女性だから、という無意識の差別に鈍感なのではないかと思う。そのことを男性達は有利に使ってきました。

 母親だから子育ては当然の役目で父親は手伝いするだけで偉い。妊娠出産は病気じゃないから夫の労りはいらない。子育てはつらいと嘆くのは母親としての母性が足りない妻の責任であり、父親にはなんの責めもないとう男性の育児からの逃げる態度をよしとしました。現代でも母性神話を受け入れる女性達が多い。そして、常に子を愛したり、完璧に子育てをすることをできない自分を責める若い母親が多いのです。

 おかしいでしょう。父親と母親は同じ日になります。母親のお腹にいるときと出てきたときの赤ちゃんが必要としていることは別です。抱くこと、オムツを替えること、乳をあげること、すべて生まれたときからすることです。父親と母親が同時に対面するのです。母親だけが子供のすべてを知って、すべてをできるというのはおかしいではないでしょうか。いくらお腹の中で育てていたとしても、母親と赤ちゃんは別の人間なのです。父親が赤ちゃんの泣く理由がわからないなら母親だってわからないのです。それでも、時間がたつにつれ、母親の方が赤ん坊の世話が上手になっていきます。それは母性があるからではなく、真剣に子育てに向き合った結果です。母乳をあげること以外はできるはずの父親が我が子とどう向き合っているのかということです。当然、我が子がかわいい、抱きしめたいという母性はわきます。簡単に死んでしまいそうなか弱い赤ん坊を抱きながら、この子を育てぬこうという意識は母親としても持ちます。しかし、それは母性神話という輝かしいものではありません。眠い、つらい、不安で堪らないという負の気持ちとそれを打ち消すために親としての愛情を確認するということをしながら、なんとか一日一日を過ごしているにすぎないのです。

 父親としての夫の存在がプラスに作用するのかマイナスに作用するのかは、それぞれの家庭により違うでしょう。ですが、母親ならできて当たり前という言葉は、父親という立場からの逃避に使われるものだということを女性は忘れないでほしいのです。

 

 社会は完璧な母親を求めているのではないか、と思われる。人前で泣く赤ん坊に冷たい社会、だだをこねる子供をしつけの不備と指摘する人、総菜を手にするだけで手抜きという目。公共交通機関に乗る際にベビーカーを使うだけで邪魔とされ、人の迷惑がわからないと怒られる。そんな社会では、 実際に子育てしている女性だけでなく、子供を産む未来がある若い女性は母親になるという選択が重たいものと考えるのは当然である。

 今、社会は少子化の解消のため女性に子供を産んでほしいと訴える。だが、今の女性個人としては子を産むというのは選択肢の一つにすぎないのです。独身で通すことも、結婚しても子を作らないことも、子供を一人だけ産んで大切に育てることも、たくさん子を産んで育てることも、どうするかは女性と、そのパートナーの判断に任せられているのです。「女は子を生んで一人前」「子を産める年齢で結婚しないのは行き遅れで恥ずかしい」「仕事に生きる女は男性にモテないことの言い訳」「一人っ子はかわいそう」そんな言葉で子を作ることを押しつけられていた時代と違い、今はどう生きるかは本人の選択にかかつているのです。

 個人の女性が子を産むことになんらメリットを提示できない社会が少子化を作っていることを理解していない人が多すぎると感じています。立派は母親になれる人間以外は子をつくるなといわんばかりの母性神話が語られる社会では、普通の人が生みたいと思うことすら躊躇われるのです。

 

 男性達は自分たちに有利に女性を扱おうとして様々な話を作ってってきました。女性は本能的に子供を産みたいと思っている。だから男性に性的な対象に見られることは喜んでいる、よい遺伝子の父親を求めているので、上から(殿様、上司、大物、有名人)からの誘いは嬉々として受け入れるはず、スタイルのよさを見せる服誘っている誘っているから触ってあげるべきetc..

 痴漢、性的暴行、ストーカー行為、男性の女性への横暴を許す理論が語られる。こんなことは一昔前のことだと思ってました。しかし、数々の男性達が、性的暴行をしたと被害者の女性に訴えられたたびに、無理強いはしていないと言い張るその姿は、女性の気持ちも苦しみも一切無視し、俺様が求めてやったのだから喜んでいたに決まっていると主張しているように見えるのです。性的行為を喜んでいるかどうかは、本人しかわからないのに、男性が女性の気持ちを決めつける醜態が現在、毎日テレビを賑わしているのです。大物芸能人であれ、名サッカー選手であれ、結婚した相手以外と性的行為を行っていること自体非難されるべきことなのに、仕事を自粛するという自分の判断の損害を被害者たる女性に請求するという無茶が許されているのを見ると気持ちが悪くなります。

 男性はいい加減、女性を尊重するべき存在だと認識できないものか。無理強いされる性的行為を喜ぶという男性の夢を叶えるための道具として女性を扱うことはやめてほしいのです。性的暴行という大きなものでなくても、接待で相手側を喜ばすために若い女性社員を利用する、部下の女性を容姿、若さ、仕事の能力以外の要素を査定する、何気なく行われるセクハラが、なぜ女性が苦痛に思うのか男性は理解しているのだろうか。

 過去、女性は、男性の性欲を受け入れ子を産む性としてのみ扱われることに、諦め耐えてきました、しかし、今その必要はなくなっています。子を産まなくてもよい時代だからこそ、誰といつ、どのように子を産み育てていくか、女性達は冷静に考え始めています。男性は、そして社会は当然に子供を産んでくれると期待して待つだけでは、女性の気持ちはつかめないのです。

 子を産む性である女性がそのために虐げられ、自由を失ってきた歴史を男性達がどう理解し、今女性が子を産みたいと思えるにはどうしたらよいのかを考えることが必要です。子がいなくても幸せに生きていけるからこそ、子がいる幸せな生活を社会が提案できるのかということだと思っています。

 

 無意識の男女差別、堂々と語られる母性神話、未だになくならないセクハラ、押しつけられる女性像。私たち女性はこの現状を受け入れなくていいのだと、反発の声を上げることを躊躇う必要ないのだと、男性達が理解しないと少子化など解消するわけがない。金銭的補助で少子化が解消するわけないのだと考えます

 

 このあと、ワンオペ育児、父親の育児ということについて語れればいいと考えてます。