一時期心屋さんの界隈で話題になっていた

前者後者論を思い出しました。

数年前に知った時よりも

「おお、わかる!わかる!」と思って…。

人は本当にこの2つのタイプに分かれると思う。

 

 

 

より。

 

(引用ここから)

 

**** 前者・後者論とは? ********

 

人間は大きく分けて マルチタイプ(前者)・集中タイプ(後者)の二つのタイプに分けられる。

 

それぞれの特性を知ることで「自分らしさ」に気づき、努力なく、ムリなく、

豊かで幸せな人生に転換しようという、心屋の独自理論です/継続研究中

 

自分との戦いを終わらせ、自分を好きになる、それが前者・後者論です。

 

 

ぽってり苺前者・・・

空気が読め、理解、理論、表現、処理能力が比較的高い マルチタイプ

 

 

ぽってり苺後者・・・

天然、癒し系、言葉をストレートに受ける 集中タイプ

 

 

自分が前者か後者かを判断する基準は1つだけ

 

注意人の話を聞いてて、頭がシャットダウン(真っ白)になるか?

・怒られたり失敗したり、あせったときにすぐにパニック(混乱)になる
・難しい話や、まくしたてられると心の中にシャッターが下りて「しまう」
・思考がすぐにどこかに飛んで行って「しまう」

・説明を受けたり怒られている最中に、うわの空で他のことを考えて「しまう」

 

この質問の例にひとつでも

「イエス」があれば、後者。

NO! ならば前者、という判断です。

 

(引用ここまで)

 

 

私は基本的に後者。

圧倒的後者。

 

多分、後天的に「頑張って」

前者を身につけようと頑張った…

(独特の方法で)

ただ、

基本的には超絶天然(母譲り)。

 

そしてド後者の方の気持ちがとてもわかるので、

ド後者の方が無理して前者になろうとしないでいいのよ

ということを常に思っていますが

「いやいや、おまえもな!」と

改めて自分に対して思いました泣き笑い

 

 

 

 

よりお借りしました

 

(引用ここから)

 

 

 

○後者が把握してる(心理的)視界

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○前者が把握してる(心理的)視界

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驚き驚き驚き驚きねえ!なにこれ????後者の人からみたら衝撃的すぎん??)

 

 

 

 

 

後者は人の気持ちがわからないわけじゃないし、
人のことを考えてないわけじゃないです。


非難されるとしたらポイントは
・人の視点に立ててないことと
・関心が向いてない、忘れてることがある

という2点であって、

優しさや思いやり、面倒見のよさなんかは持ち合わせていますし、
人の感情にむしろ繊細なタイプも、
すごい気を使う人、相手の顔色を伺うタイプも多いと思います。
(本当にわからないタイプの人と、

逆にわかり過ぎてしんどいからこの回路を切ってる人もいるでしょうが)


ただ例えばありがちなのが、
嫌われてるとか疎まれてるとかは敏感に察知する一方、

人の視点に立てないので、
嫌われてることはわかるけど、なんで嫌われてるかがよくわからない
ということが起こるのです。
(”怒られてることはわかるけど、なんで怒られてるかわからない”とかも)


それで相手に理由を聞いたところで「それくらい察しろよ」とか、
「正にそういうところだよ」とかいう話になりがちです。


こうなると後者としては、
開き直るか、(よくわからないけど)

自分がだめなんだろうと思うかの、
どっちかになりやすいだろうと思います。
 

 

(引用ここまで)

 

 

 

 

後者の私からしたら、

前者の人の視点にびっくり!

したのを覚えています。

 

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なに・・・これ・・・

ちなみに私の元夫は典型的な前者。

常に脳内がこんな感じみたい。

戦争シュミレーションとか将棋とか麻雀が得意な脳みそって

そういうことなのね。

 

 

そして、

 

・スマートな会社員生活ができる人

・電話対応が苦にならない人

・会社の組織内の人間関係にスマートに対応できる人

 

これってみなさん、

前者の方々でしょう?

と、改めて思います。

 

 

私は会社員はやってはいたけれども

相当「努力」をして、

ようやくついていけていたという感じ。

 

子供の頃から自分の

「前者力不足」には気づいていて

とにかく気が利かない、空気読めない、

常に怒られていたので、

 

こうなったら自分の個性とか

能力一本で勝負する道を

いくしかないな!

ということをわかってる子供ではあり。

 

「手に職を」を考えて貫いてきたおかげで、

社会の中でなんとか生き抜いてこられたの。

 

というか母がまた「極端な後者」なので、

苦労もしてきたわけでしょうね、

3人娘全員に「手に職を」を言い続けて、

上から、

・結果、占い師

・看護師

・建築士

 

となりました。

親には感謝しかないですね赤ちゃん泣き

頭の良し悪しはともかくとして

とにかく全員、何かしらの技術を身につける方向性で

育てられました。

なので「たまたま」社会に順応、

なんとかしてきたのかもですが

とにかく、努力はしました。

(今は努力をやめてしまったというか結局できなかったというか…)

 

 

後者である私も、

他人の気持ちがわからない、

ということはないのだけれども、

前者の人のような

「スムーズな理解」

の仕方ではないのだと思う。

 

自分の視点をずらして、移行させて、

それでようやく理解をする、

という理解の仕方なのだと思う。

人の気持ちを理解する時に、

実際には結構ストレス、

負荷がかかっています。

(仕事なので、仕方ないというか

訓練するので、ある程度は、問題ないのですが)

 

 

 

ただ、

本心からの言葉とか、

素直な感情・・・

因数分解を終えた、シンプルな、素数的な感情

に対しては

ただ純粋に、共鳴、共感ができます。

 

 

しかし、

前者的な方の脳内の複雑さ、

処理構造の複雑さを語られると、

途端にパニックに陥ってしまって、

その視点自体がない・・・

と、フリーズしてしまうことが

これまであったのかもなあ…

と、気づきました。

 

頭の良い方からしたら、

私の持っている頭の悪さの構造が

理解ができなくて、

イライラするのかもしれない。

 

(うちの彼も、私のことをいつも

「バカ」だと言ってきます)

 

 

 

 

一度その方のキャラクターとか

思考の「全容」が理解できたら

そのあとはスムーズなのですが

 

(それこそ因数分解が終わって

すべて素数の状態で

組み立てが終わった状態)

 

理解するまでには

その方が

ご自分の中の悪意から愚痴から何から

全部をあらいざらい曝け出してくれる

というプロセスが必要になってしまいます。

 

でもその曝け出しが終わり

インナーチャイルド的なものも明らかになると

シンプルな素数が見えていて、

 

その後は素数同士の計算式で

未来を導いていける…

という感覚なのですが、

これって、

すごく意味不明かもしれないですねあせるあせる

 

私の中の人の気持ちの理解は、

素数の組み合わせとか

そこから計算式ができていって…という感覚なのです。

(かなり特殊なのかも、今書いてて思ったけれど)

 

 

 

私からみると

前者の人たちのことを

すごい人たち

普通の人たち

憧れる人たち

というふうにみていて。

 

世の中の普通に働ける会社員の人

マルチタスクができる人

子育てしながら仕事もできる人

あるいは憧れるような優れた霊能者さん

全員がスーパーマンに見える。

 

 

その憧れも、

そもそも根本的に

能力とか霊能のあるなしの問題ではなくて

前者後者の

脳の構造の差だと思うと

あきらめもついてくる。

 

 

私が

がんばれば

前者の人のように生きられるんじゃないか?

生きないといけないんじゃないか?

と思うことは

ある意味、

うぬぼれに過ぎなかったなあと。

 

 

分をわきまえよう、

あきらめよう、ということだなあと。

 

 

素直にこう思えるのは

私が、

被害的に物事を捉えなくなったからだと思う。

被害的に物事を捉える性格で生きていると

本当にややこしくなってしまうなあと。

 

 

 

 

 

より。

 

 

(引用ここから)

 

・前者は「自分→何か」だけでなく、「何か⇔何か」「何か→自分」とさまざまな角度で状況全体を線のように観察しています。ゲーム盤を外から眺めるように、全体を客観的に捉えます

 

・後者は全てが自分起点ですので、自然体では常に、「自分→何か」という一方向的なものの見方をしています

自分が世界を照らす光源になっていて、かつ対象を自己延長的に、自分と連続的な感覚で捉えていきます。

どちらのタイプも、それがなんの努力もいらない基本認知スタイルです。
どちらもそこから変化させることは可能ですが、イレギュラーなので消耗することになります。

 

 

前者の視界

前者です☆
 

<前者の視界>

 

前者の脳内には、目の前のリアルな現実と並行して、

全体の状況を条件化した仮想世界=ゲーム盤、シミュレーション世界のようなものが、常に脳内にあるイメージと言えます。

 

2つの世界にずっと同時に生きているといっていいかもしれません。
(なので前者にとってはその仮想世界ももう一つのリアルです)

 

そのゲーム盤の上には「自分」という駒も入っていて、ゲームを外からプレイするように「自分を含んだ全体」を、常に多方向的に捉えています。

ゲームをしている以上、自分(という駒)は常に「状況全体の中の一要素」=ワンノブゼムですし、どんなゲーム盤かは条件次第ですぐ変わりますから、「ふつう」=その場その場でのルール感を常に確認して動きます

 

また、ゲームですから当然相手の手の意図を考えますし、自分も何手か先を見越して動きます。自分の手が周囲からどういう風に受け取られるかにも気を使います。

前者は「外(客観)からどう見えるか」を見ているのです。

 

誰がどういうことを考えて次にどう動くか、そして盤面がどう変化しそうか。常に観察されあっているし、客観的にどう見えるかで判断される。だからそれを意識し合って動くのが当たり前。

ゲームが続く限り、あったことはなくならないし、常にずっと影響し続けます。

 

だから前者の「大丈夫」はこの盤の上が安全に平和に滞りなく問題なく回ること・・・

 

やっているレベル感には大いに個人差はありますが、

そういうことを前者は呼吸レベルの当たり前にやっています。そしてそれを(レベル差はあれど)誰もが当たり前にやっていると思っています。

 

しかし後者にはこの「ゲーム盤」は存在しません。(ベース状態では)

だから言動にも意図がないことがほとんどですし、

相手の意図も深読みしません(ストレートに受け取る)。

 

でも前者はこれが共通の世界観だと思っているので、そうではない人の動きに戸惑いますし、

「わざとなのでは」「裏がある」と悪意を疑ったり、信じられない、と感じて色んな誤解やすれ違いがおきます。

 

 

(引用ここまで)

 

 

 

人の悪意を疑う、みたいなことは、

前者的思考回路なのかしら。

 

勝ち抜くことができた戦国武将とかは

明らかに前者タイプなのだろうなあ。

 

麻雀とか将棋とかのゲーム、

複雑な人間関係が理解できる脳の方は

明らかに前者ですね。

 

 

はじめてこの論理を知った時は、

私は後者だ、嫌だな〜と思ったし

 

私が優れていると思う人…

当時だったら谷原由美さんとか、

すぐれたカウンセラーさん、

霊能者さんって

みんな前者な方だから、

 

 

「わー・・・」と辛くなって

 

この論を、「そっ閉じ」

したのだった。

 

 

 

 

尊敬する銀座のM先生に

 

「あすかちゃんの場合

本当に困ってて助けてほしいってケースより

ただ話を聞いてほしいって

クライアントさんの方が多いから。

エンタメ的な占い

っていうのでいいのだから。」

 

 

と言われて、

 

「そんな自分でいいのだろうか?

そんなことで

お金をいただいていいのだろうか?」

 

と落ち込んでいたりもしたけれど

 

スッキリしていただけたらいいんだなと

思うようにして

背負わないようにした方が

いいのかもですね。

 

 

こんな私でもよいのなら…

 

 

 

 

 

(引用ここから)

 

 

 

(前者とは)

 

 

常に「全体」があるのが特徴です。

RPGやボードゲームを眺める視点。

 

現実と並行して

「全体をシミュレーションしたゲームボード」(ふつう世界)

 

 

のようなもの を持っている

とでもたとえられるでしょうか。

 

 

いろんなものを条件化、平均化した、架空の想定世界。

「今全体がこうなっている」

「あの人がこう」

「この場のルールはこう」

 

そしてその盤上のネットワーク…関係性や

それぞれの役割や条件を考える。 

 

それを外から見ている視点がある。

 

 

後者がイメージするのは難しいのですが、

例に挙げたように、ボードゲームをやっている感じと思っていただければ。

 

ゲームをしていれば、ルールや設定や場の状況、パワーバランスを捉えるのは大事ですし、

他人の行動や、他人の打った手の意図、自分の打つ手の効果・・・そういったものを計算したり、読んでいきますよね。

 

もちろん、盤の解釈や見方、やりこみ度合い、プレイヤーとしての癖や能力は人それぞです。

でもこれ自体は性格でも能力でもなく、前者の初期装備です

子供ですらやっています。

 

 

何を考えるでもなく、ただただ それが当たり前なんです。

 

言ってみれば、呼吸。

 

え?全人類やっていますよね?

くらいの感覚です。

 

 

当たり前すぎて、言われても、改めて「それ」を指摘されていることが逆にピンとこない可能性まであります。

 

誤解してほしくないのですが

後者が「全くやっていない」「できない」ではないですよ。

 

ただそれは「やれば」「訓練すれば」「意識すれば」なのです。

 

 

  

前者はそれが自動。

 

「見ている」のではなく、「見える」「見えちゃう」なのです。

「見なけりゃいいじゃん」ではないのです。

 

また盤上の情報は常に自動更新されています。

 

 

 

 

(後者とは)

 

ダイレクトな気持ちや人目は考えるけど

具体的な相手の「立場」「条件」でものを考えない。

そこから自分を見られない。

 

視点の立ち位置を変えるのが苦手。

 

 

そのため

 

・よかれと思ってやったことが、相手や周りに白い目で見られる

・注意されても「やっているつもりなのに・・」と思ったり

・何を指摘されているのかがそもそもわからない

・善意を悪意に誤解される

 

と、本人も疑問に思って、苦しんだりします。

 

 

また視点の「起点」が、常に自分と強く紐ついているため、

自分を客観的に条件化する、ということも苦手です。

 

といっても、開き直った人のほうが結局生きやすく、素直さがあれば、

なんだかんだ憎めないと思われて周りに受け入れられていたりするので、

無理をすることでもないのだとは思いますけれども。

 

(引用ここまで)

 

 

 

本当に面白い!

ひろゆきさんとか

youtube上で延々と

話ができるタイプとか頭がいいとされるタイプは

全員前者的なんだろうな・・・

 

そういうふうになりたいと思ったとしても

無理に決まっている、

ということが明確に分かって、

よかった気がします。。。

 

 

自分にとって

無理な努力をしないで

わからないことはわからない

ということを明示した上で

人に歩み寄れたらいいのかもなあと思います。

 

むりに前者的になろうとか

前者的立場で

他者にアドバイスをしようとかすることなく

自分の脳みその限界を

ちゃんと謙虚に

自覚することが大事だなあと思いました。

 

 

他人になることは

出来ないのだから…