10年前の2016年7月26日未明に、
神奈川県相模原市緑区の知的障害者福祉施設、
「津久井やまゆり園」で発生した、
大量殺人事件を覚えておられるだろうか。
この施設の元職員だった植松聖死刑囚は、
重度障害者は不幸を作る、という考えのもと、
深夜にガラスを割って侵入し、
喋れるか喋れないか、で選別をし、
19名を殺害、
職員や入所者合わせて27名に
重軽傷を負わせている。
当然ながら裁判員裁判では死刑判決が出て、
弁護人が控訴したが、本人が取り下げている。
ところがその後、再審請求をしているのだ。
理由がない、と棄却されるが、
即時抗告、特別抗告を続け、
昨年10月27日に最高裁でも棄却されると、
今年1月に2度目の再審請求をしている。
これも地裁で棄却されたが、
即時抗告して、今に至る。
植松死刑囚の極端な持論は、
もうここに書くのも汚らわしいので、
ウィキペディアでも見て欲しいと思う。
だが喋れない人や意思の疎通ができない人は、
人間ではないので自分は殺人はしていない、と言い出すに至っては、
精神異常で心神喪失認定をして貰って、
無罪になれるとでも思ったのか、と疑う。
まあそんな事にはならないけどね。
言動には一貫性があり、
責任能力は完全にあるから。
ただこの事件が起きた時、
ネットには賛同する意見が、
それなりにあったらしい事に戦慄を覚える。
植松死刑囚も賛同した人達も、
人の命を何だと思っているのだろう。
相手が抵抗できない事を承知で、
次々と刺殺しておいて、
自分は何とか死刑から逃げようとする、
そんな卑怯者を弁護する人や、
やったことを肯定する人には、
正気か?と聞きたくなる。
そりゃどんな人間にも弁護を受ける権利があるのは分かっている。
が、彼自身が言ったように、
自分が何者であるかもわからず、
意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害してもよい、のであれば、
自分も同じ様に社会に迷惑をかけるだけの存在なのだから、
殺害されて当然、な訳だ。
実際、障害者に税金を使うのが無駄だ、と言うなら、
植松死刑囚の様な人間に、
税金を使って死刑執行まで生かしておくのも無駄だ、という事になるだろう。
だが自分は死刑が現実味を帯びてきたら、
少しでも時間稼ぎがしたくなって、
再審請求を繰り返している。
問答無用で、動けないまま次々と殺害されていった被害者達の気持ちを、
死刑執行の瞬間に、
身をもって知ればいい、と思う。
家族に対しては、
「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」、と言ったが、
今に至っても殺害した被害者への謝罪はない。
殺して当然、と今も思っているのなら、
こんな人間を生かしておく意味が分からない。
他にも、事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった、
という趣旨の供述もしている。
どこまで歪んでいるんだろう、と思うが、
時間が経っても何も変わらないんだ、と虚しくなる。
事件から10年。
だが世の中が大きく変わったとも思えない。
ここまで極端ではなくても、
差別や偏見は厳然として存在する。
だが考えてみて欲しい。
もし貴方の大切な人が、
こんな偏見で殺害されたら、と。
それでも差別や偏見が正当化できると思いますか?