もう27年も経つのか、と思う。
けれど何年経っても、
あの日、あの瞬間の恐怖は、刻み込まれている。
最も被害の大きかった場所からは少し離れていたけれど、
当時、阪神間に住んでいた私は、
横揺れで目が覚め、
次いで起きた爆発的な縦揺れに、
物が落ちてガシャガシャ壊れる音に震えながら、
隣に寝ていた息子まで這って行って、
覆い被さった事を思い出す。
当時2歳だった彼は、それでも寝ていたが、
小学校1年だった娘は、
目を覚まして揺れが治まった後、
布団に座って怖くて泣いていた。
通っていた小学校は被害が大きく、
校舎内への立ち入りが禁止になった。
1月中は校庭で点呼のみ。
2月3月は、隣の校区の学校まで皆で歩いていき、
間借りをして授業をした。
その間に家に住めなくなった子達が、
お別れも言えずに転校していった。
新年度までに校庭にプレハブの仮校舎ができ、
2年生になってからは、そこへ通った。
結局2年生の終わりに渡米することになったので、
住んだのはたった2年間だけで、
地震を経験するために引っ越したような物だったな、と思う。
家の中は瓦礫の山になっていて、
暗闇の中、リビングに踏み入れたら、
壊れた組立収納の、
棚板を踏んでしまい、
足の小指の付け根をザックリ切ってしまった。
近所の医者はどこも開いていず、
病院に行く程の怪我ではないし、と、
車で大阪まで戻ってから受診し、4針縫った。
東北の震災の時もそうだったが、
被災のど真ん中にいる人程、
情報が入らない。
まあ今はスマホがあるから、
中継局が残っていればネットに繋げるかもしれないが、
当時は電気が止まるとテレビがつかないので、
震源地がどこか、被害がどの位か、
サッパリ分からない。
使っていなかったトランジスタラジオに電池を入れ、
ニュースを聴きながら片付けを始めたが、
やはり耳で聞いてもピンと来ない。
大阪まで戻ってテレビを見て、絶句した。
今日、あの日を思い出して、
孫が、将にあの時の娘の年になっている事に気づいた。
娘に、ニュースでやってたら、
あの日の貴女の経験を、孫に話してみたら?
命について考える良い機会になるかもしれないよ、とLINEを送った。
これまで元気に生きて、
孫にも会わせてくれてありがとう、とも。
災害を止めることはできない。
そしていつやってくるかも分からない。
遠いトンガで起きた噴火が、
津波の様な波を起こし、
船が転覆したり沈没することもあるのだ。
地球は生きている、
そして繋がっているのだ、と改めて思う。
急激に増えるオミクロン株に、
関心はそちらに行きがちだけど、
せめて被災者の1人として、
今日はあの日と、
あの日失われた命について、
思いを馳せたいと思う。