下級審での死刑判決が、
最高裁で覆ったのは四例目だそうだ。

確かに数少ない上告理由の1つに、判例違反がある。
事ほど左様に、裁判所は過去の判例、を気にする。
法の下には平等でなければ、というのも分からないではない。

が、しかし、計画性が無く、亡くなったのが1人だから死刑は回避、というのは、
むしろ悪平等ではないか。

殺されたのは僅か6才の女児なのだ。
大人が守るべき子供を、
欲望の赴くままに拉致監禁し、殺害し、
その上切断までして遺棄している。
計画性があろうが無かろうが、
その残虐性は、際立っているし、 
部屋に連れ込まれて首を絞められ包丁で刺し殺された、
被害女児の恐怖と絶望は、
想像すると胸が詰まる。

誤解を恐れずに言えば、
6才の子供と80才の老人では、
失った物の価値が違う。
建て前では、同じ大事な命、という事になるのかもしれないが、
人生を終えようとする者と、
これから様々な未来が待っていた子供の、
どちらに生き長らえる意味があるか、は自明だろう。

死刑の適用には永山基準というのがあって、
永山事件の被害者4人、が、
1つの指標になって久しい。
だが、事件そのものは50年も前、
判決が確定してからでも30年も経とうという事件の、
判例としての影響力に、
いつまで縛られ続けるのだろうか。

人を数でしか見ないから、
1人なら死刑適用外、になってしまう。
けれど、被害者1人、という括りはおかしい。
抵抗できない子供に対する殺人は、
大人に対してよりも、重くして然るべきだと思う。


大体、法律の専門家ではなく、
一般市民の感覚を裁判に取り入れようとして、
始まったはずの裁判員裁判。 
選ばれた人は、仕事を休み、時間をかけ、
自分達の判断で人1人を殺すことになるかもしれない、という重さを背負って、
悩み抜いて、死刑判決を出したはずなのだ。

それを、判例では無期懲役だから、と、
裁判所があっさりひっくり返すのなら、
裁判員裁判なんて意味がない。
最初から「法律の専門家」が、「判例に則った」判決を下せばいい。
だが、「法律の専門家の感覚」が
余りにも一般と乖離している事が問題になったからこそ、
時間とお金をかけて、この制度を始めたのではなかったのか。

こういうことが続くのなら、
裁判員裁判制度そのものを見直すべきではないか。