「Ergo Proxy」(2006年春夏作品)第22・23話・最終回 感想 | 深層昭和帯

深層昭和帯

映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

監督:村瀬修功、キャラクターデザイン:恩田尚之、音楽:池頼広、制作:manglobe。



meditatio XXII 桎梏・bilbul

デダルスが作り上げたリアル・メイヤーの存在によって、リルは自分が本当は何者なのかの答えに辿り着いた。自分はエルゴの対。彼を求めるものとしてのモナド・プラクシーの仮の姿だったのだ。リルはモナド、ビンセントはエルゴ。互いが惹かれ合うのは運命で決まっていた。

しかし、エルゴという存在を消すために作られたビンセントは、本物のエルゴなのか。リルにリアルがいるように、ビンセントにもリアルがいるのではないか。その答えは回廊の向こうにあった。

meditatio XXIII 代理人・deus ex machina

宇宙へ疎開した人間が帰還するために必要だった都市文明。それを作り上げることがプラクシーの役割だった。彼らは都市を作り上げ、人間を再生して、宇宙から戻ってくる旧人類を受け入れたのちに、神の代理人としての役割を終えて抹殺される運命だった。それに抗う手段はない。

だがプラクシーは不完全だった。自らの文明の失敗を忘れ去って宇宙へと逃げた人類が、完全な創造主など作れるはずがなかったのだ。プラクシーは失敗に絶望しながらも、自分がやるべき目的を見つけた。目的を達成するためには、プラクシー抹殺プログラムに抗わなければいけない。

そこでエルゴは自分の分身を作り上げた。プラクシー抹殺プログラムに抗うための、創造主の代理人ではない別の目的を持ったプラクシーを。ビンセントは自分の役割を思い出し、自分が向かうべき先は市ではないと気づいた。

そのころピノとリルも死を受け入れることが答えではないと気づいていた。彼女たちは失敗した存在であったが、それは敗者であることとは結び付かなかったのだ。なぜなら、宇宙から帰還してくる旧人類たちもまた敗者であったからだ。

そのことに気がついたリルとピノ、それにラウルのオートレイヴだったクリステヴァは、センツォン・トトチティンに乗り込んで崩壊していくロムドを脱出した。ピノに助けられたリルは、そこにビンセントがいないことに気落ちしたが、ピノにはビンセントの姿が見えていた。

ビンセントはこの世界が再生しつつあり、空には青空が戻ってくることを知っていた。そして、再生しつつある世界には、宇宙へと疎開していた旧人類が戻ってくる。彼らは自らが神のつもりでいたが、神として作られ、死の運命から逃れたエルゴには彼らが神ではないことがわかっていた。

エルゴは人間が殺しそこなった神、死の代理人として復活した。

<雑感>

「Ergo Proxy」は本当に良く出来たアニメで、いまは亡き制作会社マングローブのオリジナルとしては最高傑作だろう。「サムライチャンプルー」もマングローブの制作で、この作品はその次回作になる。

この作品の中の人類は、以下のようなことを成している。

①地球環境を劣悪な状態にしてしまう。

②宇宙への避難を決定する。

③いずれ還ってきたときのために、都市文明を再生させる神=プラクシーを生み出す。

④プラクシーに人類再生のための膨大な情報と限られた資源を与えて自分たちは宇宙へ逃れる。

⑤プラクシーに都市を作らせ、彼らを殺し、帰還後すぐに都市文明の享受にあやかれるようプログラムを組む。

以上だ。ところが人間が神を生み出すことなどできるはずもなく、プラクシーたちはことごとく都市文明再生に失敗してしまう。エルゴはそのことに絶望し、自分たちが用済みになれば殺されることに気がついた。

そこでエルゴは、自分が作った不完全な人間もどきは殺さず、無責任に宇宙へと逃れた人類への復讐に憑りつかれた。だがこのままでは自分はプラクシー抹殺プログラムによって殺されてしまう。

そこで不完全な創造主たる自分がもう一度その存在を作り上げ、人間が作ったリーンカーネーションから切り離したのだ。ビンセントは人間が作り出したプラクシーではなく、プラクシーが作り出したプラクシーなのだ。ビンセントの記憶喪失とは、人間がプラクシーに与えたプログラムの消去のことを指している。

人間の意思から逃れたプラクシーであるビンセントは、人間という敗者=劣等に対して神の力を持って処罰を与える存在=死の代理人になった。

アニメでここまで作り込まれた作品はなかなかない。ところどころちょっと凝りすぎなところもあるが、日本が生み出した傑作アニメのひとつなのは間違いない。