高村光太郎は何故に。。。 | あすかのブログ

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晩年の高村光太郎は何故、花巻に厭世するように暮らしたのか。

中学生の時に、智恵子抄を読んで好きになり、光太郎の詩集の感想を国語の授業で発表した時、先生からの質問がこれでした。

その時は、こたえられませんでした。

大人になってから、知りました。
戦争に協力する詩を書いていたことを反省するためと。

朝ドラ「エール」を観ていて思い出したので、更に調べてみました。
光太郎は、真珠湾攻撃を西欧諸国の植民地政策に酬いる一歩と喜びの日記を表したとありました。
この想いは、実は当時の日本人誰もが考えていたことだったようです。
花巻に住み始めたのは、戦中疎開をするために宮沢賢治のところへと行ったとあります。

私が戦争の惨禍を初めて知ったときは、亡くなった人への悲しみの涙だけがありました。
原爆で亡くなった人へ「ごめんなさい」と作文に書いたこともあります。
その戦争で戦った人は、優しいお父さんお兄さんであったと思い至ったとき、誰に謝っているんだと悩みました。
願いを叶えるためなら、人は勇気を持って進めるものです。

願いを叶えるための方法が間違っていたのに誰も止めることが出来なかった。

それが、悲しい戦争の被害をたくさん生んでしまった。

光太郎の花巻での生活は、反省のためと教えてくれなかった中学生のときの先生に感謝します。
通りいっぺんの知識ではなく、自分で考えて、たどり着く答がでました。

やり方を間違えたら、止めることを逃げずに行う。
その時の相手は自分自身。
嫌な相手から逃げることも、ひとつの手段と習いましたが、この相手は、逃げているとどんどん手に負えなくなるものです。

向き合い、間違いを認める作業は、本当に辛いものですが、
それを乗り越えたとき。。。

光太郎の最期の作品、
十和田湖の乙女の像をこの目で見てみたいと思いました。
短いなかでも語り合った賢治との話し合いに7年の時をかけて花巻の自然により、きっと熟されたものが出来たのではないかと思うのです。