「道があります。
この道は、自分しか通れません」

これは、自分の道という人生は、自分しか歩けないという話で、
斎藤一人さんの講演会のCDの中に収録されている言葉なのだが、ある時から、何回も耳に蘇って聞こえてきた。



それは、震災のあと、亡くなった方や遺族の方々へ、過剰な思い入れをマスコミから受けてしまう人々の声を聴くにつけ、胸の中に浮かんでくる言葉になった。

人の死を、悼む心は、大切である。

悲しみを感じることも、大切である。


それを自分のことのように思って生きようとする


それは、間違いだ。

誰かの人生の悲しみを自分のものにすることは、出来ない。
私は、悲しいんだからと、なにも出来ない理由にするなら、大きなお世話だと思ってしまう。

一緒に悲しんでいる自分に酔っているだけだ。


それよりも、いま目の前にいる大変そうな人にむけて、お手伝いする手立てを考えたほうが、悲しみに対処できる行動となるんだ。
…と、思うとき、
「この道は、自分しか歩けません。」という言葉が浮かんできていた。

でも…
たぶん、そういう思い直しを、たくさんの日本人が、たどって来たと思うが……
きっと……



今日は、
私の行く道は、
ひとつであっても、ひとつじゃない…
そんな思いが浮かんできた。

「道があります」

いままでは、
その道は、ずっと先まで自分の道として続いているイメージがあった。

遠いとおい、一本道が先にある
と…



今日、
「どうしても出来ないことだが、それをしなければ、次に進めない」
と決めていたものを、
「出来るまで続けるけれど、同時に、新たに進めるものを持つことも出来る」
に変えることに、思い至ったことが自分の中で起きた。


未来に向かって一歩を踏み出すとき、あらゆる可能性のなかに、自分の道が始めて造られる…

これが、高村光太郎の
『道程』
の詩の意味なんだと、納得出来た。


私の道を、後ろからくる者は、いない。

私の道を眺めている者は、いるが
同じ思いを抱いても、同じ道は歩けない。

いつも、私の道は後ろにあるだけ…


いろいろ未来が広がりながらも、この一歩が、唯一無二の私の道なのだ。



「僕の前に道は、ない。
僕の後ろに、道は出来る」



やっと判ったよ。
光太郎さん。(笑)