道端で、だだをこねる子ども。

「もう、いいっ。バイバイ。」

お母さんは、さっさと帰っていく。


泣いて追いかけていく子ども。




…よく見かけるんだ。こういうの…



胸が痛い…



昨日は、自転車で去っていく母親を見て、とうとう、私は、大きな声で、
「かわいそう。」と言葉をあげた。


それは、子どもを、かわいそうという意味に聞こえるだろう。
もうひとつ。
母親もかわいそうだと思ってしまう。



置いて行かれる寂しさを罰として、言うことを聞かせる。


罰が嫌だから、言うことを聞く。


このとき、お互いの相手に対する願いは、どっかにいってしまっていて、罰のやりとりだけが行われている。



その情景は、私の昔の姿だ。


言うことを聞かせるには、罰を与える。
それを習って、大きくなって親になり、子どもにその通りしていた。

そうすれば、いいと信じて…


でも…よく思い返してみて……

罰が怖くて動いていただけだったじゃないか…
それを知っていて、「しかたないのだ」と心に蓋をしながら、同じことを我が子にしていた。


結局、自分の胸の中には、罪悪感が、たまっていくばかりだった。


「なんか、違うだろ…」と。



前に進むために、だだをこねる子どもを置いて、先に行ったとしても、本当に前には進めては、いない。


また、同じことを繰り返す。

親の言い聞かせたいことを納得して、動いたわけではないから。



話しあうことが、大切だと思う。

大人と子どもの話し合いは、一方的になりやすいが、子どもも、言いたいことを言えた後は、大人の話しを聞きだすものだ。


そして、何事もなかったように、ついてくる。(笑)


子どもの話したいことを話させるとき、こちらの先入観を挟まないことが、大事である。
聞いていると、そこまで知っているのかとびっくりすることさえある。



時間が、もったいないということはない。


その時こそ、大事な時間なのだから。