慈悲の瞑想のススメを読んで、私も、やりたい出来事があった。

それは、私の内にあったものとわかっているから…



先日、映画を家族三人で観に行った時の出来事である。

映画館でも、我が道をいかねば済まない息子は、ゲーム機の電源を映画のはじまる時まで、消せなかった。ゲームに区切りをつけるまで…彼なりの流儀を曲げることは難しく、けれど、一区切りをつければ、必ず消すと知っているので、私は黙って待っていた。(彼自身が、約束を守れないことが一番堪えられない性格で、それを言われれば、こだわりでムキになる)

後ろの席に二人の女性の方が友達同士で座っていた。

息子のルール違反の行為に、かなり、お怒りだった。

私だって、目の前の人が、いつまでも、灯りを漏らしてケータイを見ていれば、もちろんイライラするだろう。
しかしその後、息子は映画の最中、一度もゲーム機を開けなかった。


映画が終わって…

後ろの二人は、
「あれは、統合失調症なのよ。だから、真ん中に挟まれて座ってたのよ。」と、
私にも、はっきり聞こえる嫌気のある声で、話しながら出て行った。

こういう時の私は、結構打たれ強い。
「病気に差があるって言うのか?」
「人が患っている病気を勝手に可哀相に思ったり、迷惑と思ったりするわけか?」

決して、こちらが悪いとは思わなかった。

しかし、あんな風に考えることが私にもあることだって十分に承知している。

そして、この
「人を勝手に判断して決めつける」
という風潮が、私の息子のような人達を苦しめている原因であることも知っている。


息子は、小さい頃、「ADHD」と診断を受けている。
発達障害があるという診断だが、見た目、障害者という一般の感覚では見られない。
彼らは、病気というより、特殊な個性を持っていると言いたい。

あらゆることを敏感に感じ取ってしまうので、物事の理解の仕方が、困難なことがある。しかも、繊細なままであるため、不安な思いからの過剰な防御の行動が出てしまう。

その不安を煽ることが、勝手な判断の決めつけを受けることなのだ。

彼らは、発達の道半ばである。障害しているのは、周りであって、彼らがスムーズに伸びることが出来る世界は、私たちも生きやすいはずであると確信する。

ここまで書いて、考えが深まってきたことに…
自分のなかにあったものを引き出してくれた、あの出来事に、慈悲の瞑想をしよう。