2話:マリー・アン・アデレード・ルノルマンについて(PART 2) | astrodori9178のブログ

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こんにちは、みなさんビックリマーク

 

占い講座インストラクター&コンサルタントのアストロ・ドリです照れ飛び出すハート

 

前回の記事では、マリー・アン・アデレード・ルノルマンの生涯に焦点を当て、彼女がフランス絶対王政時代およびフランス革命時代に果たした役割について取り上げました。彼女の生涯は、フランスの動乱期に大きな影響を与えたことが示されました。

今回の記事では、ナポレオン時代のルノルマンの活動から始まり、フランス復古王政時代以降の彼女の足跡に迫ります。ルノルマンは占い師としての地位を築き、著書や出版物によってその名声を高めました。彼女の生涯は激動の時代と密接に関わっており、その活動はその後のフランスの歴史にも影響を与えました。

それでは、ナポレオン時代からフランス復古王政時代以降のマリー・アン・アデレード・ルノルマンの物語に迫ってみましょう。

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<ナポレオン時代>

1796年、ルノルマンのサロンに、フランス社交界で「陽気な未亡人」と呼ばれる一人の女性が訪れます。後にナポレオンの皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネでした。ジョゼフィーヌとの間に友情が芽生えると、ルノルマンはジョセフィーヌに若い士官との結婚を薦めます。この若い士官こそ、後にフランス皇帝としてヨーロッパを手中に収めるナポレオン・ボナパルトでした。ルノルマンの助言通り、ジョセフィーヌはナポレオンと結婚します。

 

1796年~1801年、ルノルマンは分け隔てなく、多くの人のためにリーディングを行いました。彼女の占術は拡大し、タロットや占星術のみならず、卵や挽き割りコーヒーまで用いた占いも行っていました。当時としては鑑定料は大変高額でしたが、それでもセッションを求める人々は支払ったそうです。同様の占いを親友ジョセフィーヌに行ったルノルマンは、後にジョセフィーヌが皇后になるということを伝えていたそうです

 

1801年~1804年、飾らない人柄で将兵や国民からの人気も高かったジョセフィーヌから、絶大な信頼を得たルノルマンは、英雄ナポレオンにも助言を行うようになります。

ナポレオン軍が快進撃を続けると、兵士たちからジョセフィーヌは「勝利の女神」として崇められるようになります。それはルノルマンのリーディングによるものと言えるでしょう。

 

1804年12月2日、ナポレオンは皇帝となり、妻ジョセフィーヌを皇后としました。

英雄が独裁的統治者となった事は多方面に衝撃を与えました。それでもルノルマンは皇后ジョセフィーヌのよき友として、友情を育んでいったそうです。

 

1810年~1812年、ルノルマンは以前からナポレオンに「ジョセフィーヌとは離婚するべきではない」と助言をしていましたが、ナポレオンは聞き入れず、ついにジョセフィーヌと離婚します。離婚後、ルノルマンから「あなたはジョセフィーヌというお守りを失った」と告げられたナポレオンでしたが、大軍勢を率いてロシアに侵攻します。しかし、勝利の女神ジョセフィーヌを失ったナポレオン軍はロシア軍に惨敗。まさにルノルマンが告げた通りになったのです。

 

1814年、占い師として華々しく活躍するルノルマンは、貴族や富豪から信頼を得ていきます。その中には、ロシア皇帝アレキサンダー1世もいたそうです。一方、ナポレオンは大敗してエルバ島に島流しとなり、同年5月29日には、肺炎のためジョセフィーヌが他界しました。親友を失ったルノルマンは打ちひしがれたそうです。

 

<フランス復古王政時代以降>

 

1814年以降~ルノルマンは『あるシビュラの予言の記憶(原文Les Souvenirs Prophetiques D'Une Sibylle)』という本を著して出版。印刷会社を自ら購入して増刷を続けたそうです。ちなみに本のタイトルにあるシビュラとは、古代の地中海世界における巫女のことです。また、親友ジョセフィーヌのことを著した『皇后ジョゼフィーヌの歴史的記憶と秘密(原文Memoires Historiques Et Secrets de L'Imperatrice Josephine)』を出版。その反響はすさまじく、多くの批判もありましたが、大ベストセラーとなります。その後、イギリスやベルギーなどを転々とし、時には魔術師という理由だけで逮捕されたこともありました。しかしルノルマンは不屈の精神で執筆とリーディングを続けていたそうです。そして1843年6月27日、マドモアゼル・ルノルマンはこの世を去ります。著名人が眠ることで有名なるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。