https://youtube.com/watch?v=vDd0KQdm_6o&si=PxnjwIdC_cYekkDi


 1986年9月3日発売。8枚目のシングル。オリコン週間5位。ザ・ベストテン週間7位。

 本作と同月発売のアルバム『CANCEL』にもゲスト参加したゲイリー・ムーアが書き下ろした楽曲。セルフカバーとして1986年10月に「クライング・イン・ザ・シャドウ」というタイトルでシングルとしてリリースされ、後にアルバム『ワイルド・フロンティア』のCDにのみ収録されました。

 この1986年(昭和61年)にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」をガイ・フレッチャー(ロキシー・ミュージックの元メンバー)のプロデュースにより制作。ムーアとフレッチャーはこの年にロンドンで録音されたアルバム『CANCEL』にも参加しています。この時にフランクフルトでのクイーンのコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めました。 この年には再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリストブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」を制作しました。美奈子さんは武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあり、クイーンの担当だった宇都宮カズさんを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現しました。シングル「CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS」は翌1987年(昭和62年)に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされました。

 このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田美奈子さんの歌手活動の際立った特徴ともなっていました。

 その後はロックバンドを結成したり、ミュージカル、声楽へと進出していきました。デビュー当初から歌のうまいアイドルとして評価されており、森川美穂さんや中森明菜さん同様、アイドル界1の歌唱力があったと言われます。新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。声楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していました。音域は最終的には3オクターブに達していたそうです。デビューした頃から、もう既に他のアイドルとは明らかに違う方向を向いていたの何だか分かりましたね。


 2005年11月6日午前4時38分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で急性骨髄性白血病のため、息を引き取りました。38歳は若すぎる死でしたね。40歳を過ぎたら、ジャズに挑戦したいと言っていたようで、それも観たかったですね。しかし、日本におけるクラシカル・クロスオーバーの希望の星、そして子どもの頃、観ていたアイドルが亡くなったのはショックでした。没後20年、もうそんなに時間が経過してしまったのかと感じます。



 



 

 


 





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