マイレピ更新されたね!
ゆづのママンへの思いはこれまでもずっと感じてきたことだけれど、今回はここに心がとまったなぁ
母は、僕の考えを尊重してくれて、進む道をちゃんと未来まで見越した上で守ってくれています。例えば、「僕自身が、スケートを好きで始めた。」という気持ちを絶対に消さないでいてくれます。
ゆづ自身がスケートを好きで始めたという気持ちを絶対に消さないでいてくれる
この“消さない”って、ゆづの心の中とママンの心の中の両方だろうね
ということは、そんな気持ちを忘れそうになる事態も当然あったという事だし、この言葉からだけでも道のりの険しさを感じさせる
“絶対”っていう表現にも、ママンの意思の強さやゆづを思う気持ちの揺るぎなさが感じられるなぁと
「スケートを好きで始めた」って、本当に根本も根本…大元の根っこの部分だもんね
そこを大事に絶対に持続させてくれるって…お母様の愛と素晴らしさを実感しました
またそれをわかっているゆづも、いい息子だなぁと思いました(人様んちのことを自分ちのことのように言うww)
マイレピを読んで、私はこれを思い出していました
『夢を生きる』
第10章のゆづスペシャルインタビュー
長いので、要約して記事に載せようかなと思ったのですが、やはりこれは原文ままでなければならないと思って書き起こしました
-秘めた苦悩-
--ソチ五輪の後、周囲の期待は高まる一方でした。自分に対する期待も増していますか。
それは、間違いなくありますね。
--でも、逆に自分を信じられなくなる時もあったのでは?
あまり口に出すのが好きじゃないんですが、最近は自己解決できなくなってきました。昔はスケートに対してもっと軽い気持ちで付き合っていたんです。義務感というか、「やらなきゃいけない」と思っていました。好きとか嫌いという以前に、「ここまでやって来て、簡単に手放せない」という思いがあり、縛られていたんです。でも最近は、その感じが全くありません。望んでスケートをやっています。
--良い事だと思うのですが。
だからこそ、自己解決できなくなってきているんです。これまでは、自分の力だけで技術的な課題もクリアできました。だけど、最終的にここら辺(頭のてっぺん辺りまで手を上げて)まで来て、誰かの力を借りないとどうしようもない時があるんです。ままならないと大変です。自分の気持ちが追い付かない。体力は確実に増して、昔の構成だったらいつでもミスなく滑れると思います。だけど今は、身体も頭も(やるべき事に)追い付かなくなってきました。
--4回転ルッツにも苦戦していましたね。
自分で何回も研究して、「これだ」と思って氷上でやり始めても、それが1日で砕かれます。それを繰り返し過ぎて、どうしたらいいか分からなくなりました。昔はスケートが義務だったから、それでも「やらなきゃ」と思えたんです。そもそも、そこまで考える前に、できるようになっていました。でも今は、違う。自分の限界を感じているわけではないのですが、自分“一人”の力の限界を感じます。
それは多分、これまで4回転を跳ぶ事を意識してジャンプを作ってきていないからだと思います。
--4回転を跳ぶためには、跳び方の根本から変えないといけないのですね。
そうです。変えなくてはならないものがたくさんあるんですが、自分一人じゃ作れないし、見えないんです。トウループ、サルコウは身体能力で追い付けました。イメージも付いてきました。でも、ルッツ、ループは、そこまでやりきれていません。自分の技術や知識が、まだ追い付かないんです。
-母の支え-
--誰にも理解してもらえない苦しみがありますね。
ソチ五輪直後のシーズンは、「こんな気持ちは誰にもわからない」という思いがすごくありました。以前は、プレッシャーも、自分で解決していた。今はその領域をオーバーしています。それを自分でわかっているので大丈夫です。みんなで乗り越えてきましたから。
--以前はもっと孤独だったのですか。
オリンピック直後は、一人で抱え込んでいました。(14年11月の中国杯で他選手と)ぶつかった後も、(同年12月に手術で)お腹を切った後も、「何とかしなきゃいけない」「オリンピック王者なんだ」と一人で焦っていました。でも、そういう時期を乗り越えて、今は一人で何とかしようとは思わないです。
--ソチ五輪で勝った直後、「連覇したい」と公言しました。その時は、こんなに苦しい道のりだと想像していましたか。
もっと違うつらさを想像していました。もっとプレッシャーに対するつらさというか、五輪王者は常に勝たなくてはいけないと思っていたんです。でも、そうではありませんでした。中国でぶつかって、次のNHK杯で4位になってしまった。その後は、そういう思いがなくなりました。でも、(15~16年シーズンに)『バラード第1番』と『SEIMEI』でノーミスの演技をして、また出てきました。
--自分で自分に重圧をかけてしまうという事ですか?
期待してしまうと思います。「勝てる」とはっきり知ったので、今まで以上にそれを望んでしまいます。そこが苦しいです。一方で、(やるべき事は)もっと難しくなってくるから、どうしようもなくなる。葛藤はあります。
--そういう苦悩や葛藤を乗り越える原動力は何ですか。越える度に立ちはだかる壁を乗り越えるパワーは。
極論を言うと、母親です。
--お母様はトロントで一緒に暮らし、支えてくれていますね。どんな存在ですか。
母は、人生の目的が、自分自身じゃなくなっているんです。その感覚を、プレッシャーと感じないのが家族のありがたさです。本当に色々と支えてもらっています。
--一人で戦っているのではないんですね。
ソチまでは、一人でやっている感覚でした。(涙がこぼれる)でも、振り返ると、一人でやって良かった試合がまったくないんです。
--自分の事を分かってくれる存在は心強いですね。
すごいですよね。いやぁ、インタビューで初めて泣きました。(笑)びっくりしました。
--様々な思いを抱えているんですね。
シーズン初めは、毎年すごくしんどいんです。でも、今季はいつも以上の大変さがありました。まだ終わっていませんけど。
--大変な道のりだったんですね。
スケートを初めてからずっと大変でした。でも、両親がスケートをやらせてくれた事には感謝しています。姉がやっていなかったら、僕もやっていないと思います。恐らく野球をして、もっと勉強していたでしょう。でも、スケートを始めた時から、オリンピックで金メダルを取ると決めていました。こんなに難しい試合だとは知らなかったですけど。
私これを読んで、もう言葉に詰まってしまって…
それは(この本が発売された)当時も今もです
ゆづがインタビューで初めて泣いたのが、お母様のことを話している時だったというのが、すべてを物語っているなと思います
ずーっとね、ゆづの秘めた苦悩を語られる部分があって、それは今またあらためて読むと、ジャンプに関してはジスランの顔が浮かんできたり、ルッツやループに関してはこれからを重ねみて思うことがたくさんあります
想像以上の苦しみと、計り知れない重圧に押し潰されそうになる日々
それも何年間も
そこを乗り越えてきた原動力やパワーを、『母親』と言ったところが、私はもう言葉をのみました
それがすべてだなって
ゆづとお母様の関係、何も言葉はいらないなと思いました
そして、自らの歩んできた道のりを振り返って、涙がこぼれるゆづ
なぜか?
それはやはり「母は、人生の目的が、自分自身じゃなくなっているんです。」ということを実感し続けてきたことに、あらためて気づいたからなんじゃないかと思うんです
支えてもらって、一人でやって良かったという試合がまったくないと言うほどまでに尽くしてもらって、感謝している…
これは、感謝の気持ちを表している
『母は、人生の目的が、自分自身じゃなくなっているんです。』
と、同時に、私はなんとなく…“申し訳ない”って気持ちもどこか感じられて…
なんて言うか…ゆづの自責の念をこの言葉にどこか感じるんだな
母には自分の人生を生きて欲しい、目的を自分自身にして欲しいと思う反面、そうはいかなくなってしまった今のこの状況を申し訳なく思っている
それをどこか感じます
“プレッシャー”とゆづが表現していることも、自分の存在が大きく大きくなってしまったがゆえのジレンマのような思いを感じます
思うんだけれど、きっとゆづはママンの大変な姿を見続けているのだろうと
もしかしたら、涙したり悩んで苦しむような姿も見たりしているのかもしれない
そういった時には、“自分のせいで…”“ごめんなさい、申し訳ない…”という気持ちが当然湧き出てくるだろうと
でもそういう自分の申し訳なさのような気持ちさえも、すべて包み込んでしまうような圧倒的な存在
それが、『母親』であり、抱えきれないほどの愛情と注ぎ尽くしてもらってきた日々を実感して、ゆづの目から涙となってこぼれ落ちたんじゃないかって思っています
感謝と、申し訳なさと、すべてをのみ込んでしまうほどの存在の大きさと愛情を実感して、涙となってあらわれたんじゃないかって
そして涙を流したことに自分でも驚くって、きっと…頭や心といった表面的なものではなく、もっと奥深くの魂の反応であると私は思っています
なんかね、夢を生きるのあの章は、私の中でものすごく思いが廻ります
マイレピ
『僕は母親の自分を犠牲にしてでも、息子を守りたいという愛情をひしひしと感じながら生きています。』
この言葉も、“犠牲”にゆづの思いが表れているなぁと思って
きっとね、子からするとそんな風に見えるんだよ
私もお母さんを見る時はそんな風に見える時がある
というか、たぶん本能的に、本質的に、「この人は自分の命を犠牲にしてでも私を守ってくれて、生かしてくれるだろう」ってことを確信的に感じているんじゃないかと
だからそんな表現になるのかなぁと
だからこそ、『生きています』が強く生きてくるのかなぁと
前にお母さんとゆづの話をしている時に、その流れで『使命』について話したことがあってね
うちお母さんは、「使命って、“命を使う”と書くでしょ?」って
そういうことなんだよって
「誰にでも使命はあって、誰もが使命を持って生まれてきて、使命を果たすために生きる。」
別に大きくなくていいって
たとえば家族のために日々ご飯を作って、仕事をして、そこに尽くすということも使命のひとつだよと
なんかね、この『命を使う』という表現がすごく印象に残っていて…これってきっと、時に“他者に対して”だよね
たぶん、自分のためにとしていることも、めぐりめぐって他者のためになっていることならば、使命というのだろうと
“命を使う=命をかける”というくらいの重みだよね
『母は、人生の目的が、自分自身じゃなくなっているんです。』
これって、幸せなんじゃないかって思うんです
お母様は、まさに使命の元に生きていらっしゃるのではと、勝手ながらに感じています
当事者でない私なんかが何を言うかって感じですが、人生の目的が自分自身じゃないって、人としてこんなに幸せなことってないんじゃないかって思います
大変でも、つらくても、涙が時には流れても、誰かのために命を使える、命を使うように生きるということは、人間の本質的な一歩…イデアではないかと思っています
そしてこれは私個人の想像ですけれども、お母様はゆづが生きているというだけで、もうきっと一生分の幸せを還してもらっていると実感しているのでは…と思っています
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