昨日も一日40度の熱が下がらず…
(病院行きましたがインフルではなく風邪と)

とんぷく飲ませてようやく38度台後半だよー
薬切れると同時にすこーんと40度…

なんとかしてやりたいけど、できることって限られていて…

まぁ、耐えの時ですね!



ほんと痛感!健康第一!

 
 
さて、こちら動画が見られるのですが…
 
短いウェブニュース的なものなんですけど

ここで語られる萬斎さんの言葉が
また深いなぁと思ってね
 
野村家三世代で
パリ公演をした時のもの

 
三番叟か…
ゆづとの対談思い出すね

 
時代の変化の中で継承されるもの
 
 
 
 
 
 
本質…
これは“基礎”
いわゆる『型』ということでいいのかな
 

この捉え方も萬斎さんらしいなぁと
 
両極面を見出しているところ
なんとなくわかるなぁ

便利になったけど反面窮屈でもあるというか…心がそれに支配されたり囚われが生まれたり…これも光と闇だよねぇ


しかし
 
 
萬斎さん笑っていたけどw


 
 
うん、確かに

興味ないことなんて
一生その情報と交わることないだろうものね

私ゆづ関係でもそうですが
すべて知りたいすべて見たいとかまったく思わないので、知らないことは知らないままいくんだろうなーと思っています

それが心地いいというか…
まぁSNSの世界に少し足を踏み入れてある程度経った今、これが自分を保つためでもあり、心を守ることだとも思っています

私の中ではSNS=深入りはしないと決めているんだな
 
 

でも伝統芸能に携わり
狂言師…表現者としてこういう世界にいる人にとっては
その活動を
情報として取り上げてもらうことが重要と
 
 
萬斎さん個人は
きっと検索好きと思われw
 
重ねてこんなことも言ってたね
 

きっとずーーーっと気にかけてくださっているんだろうなと思います
(いろんな場所場面でコメントもしてくださるしね)
 

もう三年四ヵ月も前の対談…
 
やはり…
何度見ても何度聞いても
その度に新しく見えて新しく聞こえるというところが、すごいなって思いますし

ある意味この対談自体が
神がかっていたのかなぁとさえ今になって思います
 


萬斎さんの言葉

金言ばかりだったよね



ゆづが冒頭
型がないところでの陰陽師 安倍晴明の役作りについて問うた時
 
まぁでもやっぱりその、ちょっと世の中の人とは違った、あの世かわからないけども違う世界と交信している、繋がっているっていうニュアンスはやっぱり、どうしたら出せるかっていう…それは台詞の説明ではなくて、一挙手一投足
 
一つ一つの所作をする、間であるとかっていうことをやっぱり気をつけましたね
 
『陰陽師』という映画ではこういうふうにするのがその、印を結ぶっていうか
すごい省略された形らしいんですけども

で、これに何かその威力を持たせるためには、ただ単にこうやって呪文を唱えるだけじゃなくて、やっぱりその指先の一つの表現力っていうものを…こう見せてくっていう…技術っていうものを使ってく
 
ある種不自然ですよね
だってこうやって動かす人いないですからね
 
普通にはね
そうですから不自然なことっていうものにまあ一種見てる人の想像力を働かせるっていうことが、やっぱり僕らの真骨頂な気はするんですね

(これってフィギュアも同じだろうね。ジャンプやスピンなどある種不自然なものに対して技術を使って表現力を持たせるっていうね)
 
 

そしてここ
当時めっちゃピリッとした瞬間だった
 
例えばその『SEIMEI』の初めの方でこう同じポーズしていただいてますけど、例えば僕らだとここに烏帽子があって、ここに自分のバックにこう大きな袖が来るわけですよね
で、それを自分の中の身体感覚として絵でこう…ここに大きな白い一枚の布がきて、ここに烏帽子があってこうなってるっていうふうになるわけですけど、それをまあどう表現されるかなっていう
 
僕も狩衣がなければなんかもっとグッというふうに…だんだんフラメンコチックになってくるなとかね
 
 
まあそういうふうにこう…やっぱりちょっとずつ身に着けているものが違うとアレンジする必要性があるとか、どこを見せるのかっていう感覚の時に、じゃあこの左手は何ぞやと
(ここドキッとしたねー、当時。や、今もドキンとするな)
 

その時のゆづの顔
なるほど…ってちいちゃく呟いた
 
 
萬斎さんは狩衣と呼ばれる長い袖を左手で掴んでいて、これには衣装全体を美しく見せる狙いがあった
ゆづにはそんな衣装がないから
きっと萬斎さん的には気になったんだろうなー
 

もう完全に振付をされたがままにやってる状態なんですよ

ああ、そうか
でもそれはね、たぶんね「型」はねやっぱり自分で解釈していくもんだと思います
 
やっぱりそれはこの「型」に何の意味があんのかなっていうのをわからないというか放っとかないで
もちろん放っといてやってくうちに気が付くでもいいんですよ
 
 
例えばこれもまあ晴明がやってたからっていうだけでなくてこれにすることで何かこの…
例えばこれが天を向いていてこっちが水平軸を持っていて自分の意識は地に足にあるとかっていうような「天・地・人をまさしく司っとるのや」という意識を込めれば、それが集中の一つの契機になりますよね
 
360度お客さんがいる中でそういうふうなベクトルを全方向に使ってくためには、やっぱり使ってくっていうことが、手であるとか指であるとか、いろいろおありなんじゃないかと思うんですけどね
 
 
この対談後からゆづの左手の振付けは変わり
すべての試合…平昌までずっと同じだった
 
 
 
 
ゆづから質問
 
一つの型でもいろんな喜怒哀楽があったりだとか、またはその皆さんに捉えて欲しいイメージっていうものがまた違ったりもされると思うんですけれども、その時って基本的には自分がもうそれになりきってその気持ちになりきってやるんですか?
それとも見てもらうことを意識してそれをやるという形なんですか?
 
それは深いですね
 
演技者っていうのはどっちかっていう時に、まあ…えー、俳優、養成の感じで言うとなりきって、笑う時には本当におかしく本当に悲しくて気持ちから入る方法論と、我々のように型から、例えば泣くっていう時だってこういう…型をすれば泣くなんだっていうことなんだけど
 
まあ僕はそれは両輪だと思うんですよね
 
人にそれが泣いていて気持ちいいとか、美しいと思わせるっていうことは表現者として重要なことだけども、それをやっぱり裏打ちする気持ちもないとやっぱり形だけになってしまうので、やっぱり気持ちも重要だし、そしてそれをちゃんと人に表現として見せるっていう両方が必要だなという気はしますよね
 
なんかそれは、本当スケート見てても、ただ単に振付けとかその体操してるみたいな人と、あの(笑)情熱…パッションを感じる人と、両方いらっしゃいますよね
で、両方できる方がまあ一番強いってことになるのかもしれませんけれども
 
はい
そこはたぶん一番僕たちが目指さなくてはいけないところではあると思いますし
 
やっぱりそこがある程度、アスリートである部分とアーティストでなくてはならない部分だと思ってて
勝敗があるからこそジャンプを跳ばなきゃいけないとか、その難易度を高くしなくてはいけない部分に関してはすごくアスリート的なものがありつつ、そのアーティストという面では、その振付けだけではなく気持ちも入れなくてはいけないていうのはすごく感じますね
 
 
 
“音”について
 
やっぱり僕らは、そういう意味で言うと省略の文化で、ほんとにわざと音がないところまですーっと来て、ある種準備動作もないままパンっと跳んだかと思ったらドーンと落ちる、その瞬間にものすごいエネルギーがあったことに気が付くというか
まあそういう感じですよね
 
ずーっとリズムを感じさせるっていうところももちろんあるし、急にリズムがないところから一種の無の状況にふっとなったかと思ったら軽やかにふわっと跳んだかと思ったらドーンっていう
 
そういう意味で言うと音に付いたり離れたり
 

『三番叟』というものの中にね、三連続で跳ぶっていうのがありますけれども、まあそれなんかもこう来てね、こっち跳びたいんですよ、わざとこっち跳びたいのに、逆回転すんですよ
こうやって一度後ろに振っといて、そして最後だけ音をさせると
 
まあですから
押すだけではなくて引く演技というかね
 
 
どうしてもこうやりたいああやりたいっていう、見て見て見てって言うためにはその分引いている部分ていうものがあった方がより効果的に見えるっていう
 
リズムに支配されるのではなくて、その人がリズムを支配してるというような見え方がする時は、何かこう見てる人間が本当に見ててよかった生きててよかったっていうか
ここにものすごい生き物がいるっていうような、なんか感動をね、与えるのかなっていう気がしますけどね
 
 

能狂言もそうだしおそらくスケートも、もう跳ぶっていうのがわかるじゃない?

はい、はい
 
で、これはこう跳ぶんだっていうのがわかってても、それを“おお…”と思わせなきゃいけないっていうことが、まあ一つ、型のある者の宿命
 
で、そうした時に我々はおそらく、もうお客様が期待されること以上のことを…本当に以上かはわからないけれども、その時のお客さんにとっては自分が思ったよりも上を見せる…ていうことをしなきゃいけない
 
(ゆづのジャンプやプログラムの話が入る。毎回同じことをやるので…というゆづ自身の経験談)

うん
これは宿命ですね
 

この話の時の

ゆづの反応
ゆづの顔
魂抜
 
 
なんか…すっごいもう…すごいためになりすぎて、今頭がちょっと混乱してるんですけれども
 
パンパンなんですよ、ほんとは
 
はぁ…
すごいなあ…なんか…すごいなあ

すごいところに来てるなあ、俺
 
倒れちゃうw
 
“型のある者の宿命”に共鳴したのかな…

本質的に通じ合う瞬間だったのかも

 
 
まだまだ金言は続くよ、どこまでも←
(印象的だったところを載せますね)
 

その場とその時間、空気をやっぱり纏う…

(お客さんとかこの会場の雰囲気だとか)やっぱりそれに対して挑戦的にあまりし過ぎるっていうことではなくて、やっぱりそこを、その空気、場を味方につける、纏うっていうようなことができると…人は喜びますね
 
その場の空気を纏って全部の体の中に入れるんだっていう解釈も成り立つんだと思うんですけれども、人間の常軌を逸した、そういうふうに一種神がかるというか、あんまり自分の中で意識がなくなる部分ていうのはありますよね

で、意識がない時の方が気持ちよく、まあ舞えると…いう感じでしょうかね
 
 
森羅万象、この会場の中の空気であるとか、そこを突き抜けた天とやっぱり地面と、まあ自分と同レベルにいるようなという、同レベルかわからないけども、生きとし生ける生命…それこそ生命
生物に対しての気をちゃんと自分は押さえるのだという意識から始めてく中で、押す、それに対して行き来するからそれを纏うっていうこともできる
 
 
うん、
やはり今聞いても
どの言葉もすごく新鮮に感じられて…

こういう極意って時の経過や時代など関係なく、ずーっと普遍的なものとして根底にあるものなんだろうなぁと思ったりして

でもきっと
極めた人じゃないと話すに説得力が欠けますし
萬斎さんの場合は自らの経験によって得たものばかりなんだろうなとも思います

だからこんなにも言葉が入ってくるんだろうなと

また萬斎さんの表情や会話の間や
持っている空気感や発しているオーラ、豊かな語彙力が人を惹きつけますし、ものすごく心掴まれます

 
 
 
それから“今になって”思うこと

この対談の一番頭の部分
ほんとに冒頭も冒頭のところで

萬斎さんがSEIMEIについてゆづにたずねたこと


「安倍晴明」と命の「生命」と掛かってるんですか?
 
そうですね
 
やっぱりそうだ
 

CwWで『僕の生命をかけたSEIMEIです』と言っていたけれど、なんだか一つに繋がったというかね


今からSEIMEIを作り上げるぞっていう時期に問われた言葉と
平昌で連覇を果たしSEIMEIをやりきった後に凱旋ショーの場で自分の口から言ったこと

“SEIMEI”に関する頭と結びの部分で“生命”という言葉が出てきたことに、私はロマンを感じたりして…


ジーンと沁み入っておりました
 
 


時を刻んできたSEIMEI
 
ほんとにいろんなSEIMEIがありましたけども
 
結実してよかったなぁと
 
ほんとにほんとによかったなぁと
あらためて思いました
 

『死力を尽くして死闘を制したね』
 
萬斎さんがゆづに送ったメールの言葉を思い出します
 



CwW愛蔵版


一番最初の部分

スペシャルメッセージとして
誰よりも先のページにゆづへと言葉を寄せてくださっているのが萬斎さん

私はこれに
ゆづの想いを感じたんだなぁ

きっと最初に持ってきたかったんだろうなぁと

そのくらい気持ちが強くて
感謝の念を抱いているんだろうなって思ったんです

萬斎さんとの対談がなければ
もしかしたらSEIMEIは完成しなかった

そんなふうにも思っているんじゃないかと
 
 
 
(2015年8月に)初めて会ったとき、えらくはにかんでらっしゃったのを覚えています。非常にたくさんの疑問ややりたいことなどをお持ちで、ただ、イメージとしては何となくわかるけれど、言葉にはできないという状態だったのではないでしょうか。その曇っているところから抜け出すための具体的な言葉であるとか、僕の舞台人としての感覚を求めていたように思います。打てば響くというように非常によく反応されるなぁというのが、正直な気持ちでした。彼の中の問題意識に、僕の50年くらいの歳月をかけてきた言葉が響いたのはおもしろかったですね。20歳の若者がそういう言葉に反応するということにも驚きました。あのときは、僕がかなり一方的にしゃべったかもしれないですけど、彼の質問が非常に的を射ていたのでするすると言葉が出てきましたね。ある種、運命的な出会いというとおこがましいけれど、非常にフィーリングが合ったのだと思いますね。
 


本当に驚異のアスリートですよね。才人というか、哲学のある人というか。彼を見ていると、そういう哲学をちゃんと自分で確立している。そこが圧倒的にほかの人たちとは違っていますね。

自分をそこまで律せられる、その能力と技術と哲学といった心技体を彼がどこまで究めていくのか。ある種、「スケート道」になってくるのかもしれませんが、スケート道を究めてどこまで行くのか。だんだんジャンプが跳べなくなっても、彼はスケート道を究められる人かもしれないですしね。そうしたことに興味を持ちます。もう一度話してみたいと思いますし、今度はこちらがいろいろ教えていただきたいですね。
 
 


これ以上ない言葉

きっと今も見てくださっているだろうし
これからも…だよね


こういう言葉を聞いていると
ゆづの平昌金メダルは、SEIMEIに携わってくれ表現者として極意を伝授してくださった萬斎さんにも、結果を伴った最高の形として廻り還っていったのではないかと思います


対談、実現するといいなぁ



 
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