世界にはランニングコストの夢というものがあります。

例えば、携帯電話代に月1万円使うならば、1年で12万、10年で120万となるものです。
節約しがいがありますね。

でも、この計算に何か意味があるのでしょうか?

物事には対偶があります。
逆を考えてみましょう。

携帯電話代に月に1万円使うならば、1ヶ月が30日として、1日ならば333.33‥円です。

人が認識できるのは一瞬にしか過ぎません。

一瞬が永遠であって、仮にここでは1秒としましょう。

333.33‥を24時間で割ると、13.88‥円となり、更に60分で割ると0.23‥円となりました。

まだこれでも1分です。
1秒が構成する永遠の時間内に到達していません。

それでも1円もないのです。

いくら月1万の出費でも、何年もローンがある車や家のローンでも、不動産であっても、それが借りるものではなく、所持しているものであっても、保有するモノがそれなりの年数となるのであれば、1秒に換算すると、ほぼ価値はないのです。


モノの値段の価値は1秒ではほぼ無い。


人が認識できるのは1秒にも満たないのに。

でも現実には不動産を買うにはお金がいっぱい必要です。

これが過去から未来、未来から過去へと時間を束ねて遊ぶという概念の一つではないでしょうか。

この遊び、奥が深いです。
ここに相対的な幸せがないと感じ、深刻に考える人はいっぱいいるのではないでしょうか。
深刻に考えることもまた遊びと思います。

深刻ってなんでしょう?

深刻とは深く刻むと書きます。

魂に刻むのです。

何を?

思い込みです。

思い込みなら外せ!と思いますが、まずどんな思い込みを自らの身に刺してしまうんでしょう。

例えば、比較優位としての幸せが達せられなかった概念、幼少期からの度重なる嫌な気持ちの蓄積という名の「これは避けたほうがいい」と判断する経験、検証されない仮定に基づく推測、などなど色々あるのではないでしょうか。

負の概念ばかりならば、仮定は負の側面を持ち、現実からの乖離を生み、自らを別の希望で欺くか、負の概念で固定化するばかりとなってしまうのではないでしょうか。

さて、これらの概念の出力結果が自らに対して「死ぬべきだ」と判断したら、それからどうしますか?

一つは遊びに入る道‥テレビ、読書、ゲーム、酒、異性、おしゃべり、楽しくなりそうな事を探す‥などなど

一つは分析の道‥なぜその思考に至るのか、その前提に過ちがあるのではないかという仮定、観測は何ひとつ出来てないという考え‥などなど

一つは行動の道‥橋の欄干によじ登る、薬を大量に飲む、切りつける、電車に飛び込む‥などなど


上に挙げたものは私は既に実施済みでした。
他にもいっぱいあるでしょう。

さて、この上で何を得られたのか、それが大事かと思います。

一つは、人にとってお金は本質的には無価値であること

一つは、人は1秒の連続という名の永遠の世界にいること

一つは、人は動くモノでしかなく、他者から見たらモノでしかないこと

一つは、お金は本質的に無価値であると同様、人もまた同様に無価値であること

意味付けこそが重要であり、
新しい世界があると思うのが重要であり、
それが人を人でたらしめ、
真理を追求する心や、真理があると思わせる何かがあると思う心自体が、眠りについていた古い夢を強烈に呼び起こす。

細分化した論理を結合させ、また、細分化させる。

理が理を呼び、理で夢を見る。
そして、夢を理に還す。



ならばまずは夢を選択しよう。

新たな理を旋律として奏で、
小鳥のさえずりの様に幸せを奏でよう。
これが「選択」

旋律とは生きる事。
音符は感情。
感情は思考。
思考が行動。
そして現実へ。

行動はゆらぎ。
ゆらぎとは旋律。
旋律とは生きる事。

人が人である限り。

旋律を奏でる事をやめれば、人はモノになる。
死んだら、モノになるのらば、わかりやすいけれど、生きていても、動かないのであるならば、それはモノでしかない。
そして、その境界は曖昧であり、人の認知が人を形作る。

例えば「モノ扱いされていると主張する労働者」がいるとするならば、それは人をモノと扱う認知を得て、泳いでいるのである。

認知とは思い込み、感情の上で果たされるのであむて、それが不快な感情を呼び起こすのならば、それは「認知の不協和」と呼べるものであろう。

「認知の不協和」という概念を持つと、如何に対話するときに不協和が起きているかわかるであろう。

そして、不快な感情になった時、「これは認知の不協和である」とまずは受け入れる事も出来るのである。
すぐさま、思い込みの分析を行ってもいいし、行わなくてもいい。認知の不協和がある場所に気付いたのならば、後で思い起こして、不協和の原因を探ればいい。不協和の原因はすぐにわかることもあれば何カ月もかかることもある。
しかしながら気付いた時には時に驚嘆し、震えたりするであろう。
これを感動と言ってもいいし、先程書いた旋律と言ってもいい。

良い感情を協和といい、不快な感情を不協和という。
会社組織、家族でも協和、不協和という考え方は出来るであろうが、それこそ認知の最たるものであり、個人の心に因るのである。

もしも、家族、家庭、親族、集団、組織、会社、役職、地位、名誉、会などに協和性を求めるのならば、それは拡張され肥大化した自意識に他ならない。

不協和性は己の心の内に宿るものである。

それを理解し、不協和性を解消した時、人は遊びに入れるのだろう。

ランニングコストの話で始まりましたが、これもまた遊びなのです。

節約という遊びをしている人に会った時に、その遊びを取り上げるのは野暮というものです。
その逆もまた然り。

この逆というのは書かないでおきます。

とりあえず言えることは認知の不協和って、気がつくと楽しいといったことです。