前回の記事で、「歪なゼロの概念」と最後にさらっと書きましたが、
まったくこれまで説明していなかった概念と気づいたので、書いてきます。
まず、ゼロの概念と聞いて何を思い浮かべるでしょう?
例えば「インド人」とか思い浮かべたんなら、これは教科書的な知識です。
民族主義的な傾向すらあるかもしれないので、以前に書きました
このブログの最初期のエントリーですが、ステータスの話になるかと思います。
自己顕示欲から生み出されて、自分の内に作製された知識の引き出しなんですね。
もちろん数学としての話もあります。0か1か。オンかオフか。
人も機械も変わりません。
心を無にするというのは「ゼロの概念」を適用した状態。思考が流れない状態。
心をオフにした状態とも言えます。
この状態では人間はモノともいえる状態であり、死体と変わらず、機械と変わりません。
人は動く物、動物なので、ここから周りの微粒子、所謂、空気に影響されます。
「空気」と呼ばれる微粒子は我々の体の様々な器官で、受信が行え、「感情」を作り出します。
例えば、耳が聞こえない人がいるとします。
耳が聞こえない人はこの"耳が聞こえる為の統合器官"を有していない状態といえる訳で、
これを利用した会話は利用できません。
音というのは面白いものです。
知らない外国語をしゃべる人との対話は成り立ちません。
それは言葉が違うから、と私は簡単に説明したつもりとなります。
音楽を再生する機器は、人が理解できる音を放ちますが、
それは会話ではなく、理解できない音は人は雑音と捕らえます。
聴覚器官とは何なのでしょう?
実にこれは同じ「夢」を見るカテゴリー、区分に属した人達の遊びと捉えることができるといえます。
そのインターフェース、会話手段としての基礎となるモノで、外部との接続手段な訳です。
人が理解できるもの、体験できるものは人は科学によって何時の日か、説明することでしょう。
人が理解できないもの、体験できないものは「夢」の範疇の外にあるものといえます。
私が霊体験をある程度、体験した後、モノの声を聞きました。
モノ同士の会話や、モノにとっての「愛」の概念です。
であるからして、私は人もモノもすべて同じと考えてます。
私はまったく現代科学では観測できない何らかの会話手段を用いて、
モノや、機械や、人や霊が会話していると信じます。
これが微粒子の移動は常に起こるという事実です。
それは思念や、思考なども含まれ、言葉も含まれますが、すべて微粒子です。
微粒子の振動がある故に宇宙は、宇宙として人の前に存在し続ける。
「感情」とは微粒子の"特定パターン"と言い換える事ができます。
現在見ている「夢」という名の身体に刻まれている微粒子が、
「空気」由来の微粒子と衝突し、「思考」を生み出します。
「夢」には幾つものが概念が微粒子として含まれます。
"概念"もまた微粒子の集まりなのです。
科学の世界では、粒子に名前をつけたり、現象を観測してばかりで、
思考の宿り先はまったく持って非科学的な世界です。
「空気」と身体に入っている「夢」が「感情」をつくり、「思考」を生み出します。
その思考が流れていない状態が「無」であるかと思います。
私は「無」の心となる状態が非常に多いです。
であるから、新しい汚い感情の集合である負の概念や、
幸せな感情の集合である正の概念を集めたがります。
これは宇宙の本能とも言えるところであり、生物の本能よりも、
もっと上位にある本能であるとも思います。
「無」というのはある瞬間、瞬間に訪れ、拡散していくものと思います。
「無」は人間によっては、付かず離れずのものではないでしょうか。」
感情制御によって、思考を耕し、ある時は過剰適応させ、
ある時は抑え込み、人は「無」の状態を作るわけです。
「無」と聞いて、仏教や、ヨガを思い出すかもしれませんが、
特別なものではないです。
『あーそれ聞きたくない!!』でも、思考停止と感情制御の果てに「無」は生まれるわけです。
これが「無」の話。
「無」に至るための技術は巷にあふれています。
心理学やら、ヨガやら、仕事術やら、漫画やアニメやら。
しかし、それが終わった後に「夢」を見出すのがまた人間というものです。
そして、ここから本題である「歪なゼロの概念」となります。
「無」から「夢」を発生させるが如く、
人は自らの持つ器官が体験できる"何か"を追い求めだします。
ここで、無から有にすること、もしくは有から無にすることに動きを感じる、
感動を得るわけです。
思考であっても、モノであっても、気持ちが動く点は同様です。
ゼロとは何も持っていない状態を表すことができます。
それをプラスにする為に、人はお金を貯め、人を動かし、自らの健康や家族すらも犠牲にしながら、プラスに持っていくのです。そういう物語であり、夢なのです。
この事実を広告として使うことができます。
つまり、今は無いことにフォーカス、焦点を当てるという事です。
これは、まだ食べたことのない料理、持っていないモノ、習慣とはなっていない高額商品の繰り返し購入、引き締まった身体、持っていない性格など津々浦々です。
これに焦点を当てた瞬間、それを所有するという夢を提供する訳です。
これによって、ひとまずお金は減りますね。
高額商品で自分の思い描いていた夢が実現できなった場合、「騙された!」と感じることもあるものです。
でも、自分でその夢を選んだ事実には変わりありません。
巷に跋扈する自己責任論とかいう思考の夢の話ではありません。
単純な夢とその結果と捉えてください。
そして、これが負の感情を発生させることがあるのです。
「騙された!」となった場合はその典型です。
例えば、結婚、良き伴侶、家、預金、学歴、自動車…これらを積み重ねていくことがあれもこれも所有している状態といえますが、例として掲げた数は、「+6」です。
「+1」より、「+6」の方が幸せという捉え方です。
でも、幸せな時間の時ってそんなものどうでもいいものです。
つまり、「歪なゼロの概念」とは、無いものに焦点を当てて、それを手に入れようとして負の感情が発生しているという状態を表す概念を指します。
勉強したくないのに、勉強を無理にさせられている受験生がいるとします。
本人も、そして、その親も「歪なゼロの概念」の適用下に居るといえます。
仕事でも同じです。
お金を稼ぐために、仕事を「しなければならない」と考える人がいるとします。
仕事に行くのが面倒、あの人に会うのが面倒、この仕事はしたくない、色々考えますが、これも「歪なゼロの概念」の適用下です。
パートナー探しでも同じです。
年収が高い人、自立している人、家事が出来る人、体格がいい人、食事があう事、癒される人である事、思いやりがある人、性格が合う人、理解してくれる事、守りたくなる人…
すべて、「歪なゼロの概念」の適用下です。
「歪なゼロの概念」を征服するのは、今の私にとっては、「ゼロの概念」、無、
もしくは「感情制御」、論理的思考、または、別の夢(+1の世界にする訳です)を見ることです。
他者との会話は、進歩的発想を生むことがありますが、最初期は「先送り」となってしまうので、私にとってはそれよりは前者の方を選ぶことが多いです。
「歪なゼロの概念」から発生する負の感情には、焦り、恐れ、怒りなど多種に渡ります。
これが感情提供の理からすると、あまり良くないものと思います。
良きものとするには、今ある事を感謝する為の言葉の羅列群が必要です。
即ち対偶の理論です。
お金を稼ぐために仕事をします。→今はお金がないという、お金を手に入れなければならないという「歪なゼロの概念」の適用下であるといえる。
更に仕事をした結果は、「幸せ」が待っているのであろうが、幸せとは相対的なものなので、「歪なゼロの概念」の適用下であるともいえるが、「感情制御」で手に入れた幸せは体感型で、時間差を利用した幸せになる方法なので、「ゼロの概念」が生み出す幸せと位置づけよう。→感情制圧の理から、この宇宙で幸せになれば、引き寄せの法則ですべての幸せのものが自分に集まってくる→そういった活動が仕事を生み出し、お金を生む。
こういった形で、『概念転換』を行います。
いつまでも明るい世界を目指して。
まったくこれまで説明していなかった概念と気づいたので、書いてきます。
まず、ゼロの概念と聞いて何を思い浮かべるでしょう?
例えば「インド人」とか思い浮かべたんなら、これは教科書的な知識です。
民族主義的な傾向すらあるかもしれないので、以前に書きました
このブログの最初期のエントリーですが、ステータスの話になるかと思います。
自己顕示欲から生み出されて、自分の内に作製された知識の引き出しなんですね。
もちろん数学としての話もあります。0か1か。オンかオフか。
人も機械も変わりません。
心を無にするというのは「ゼロの概念」を適用した状態。思考が流れない状態。
心をオフにした状態とも言えます。
この状態では人間はモノともいえる状態であり、死体と変わらず、機械と変わりません。
人は動く物、動物なので、ここから周りの微粒子、所謂、空気に影響されます。
「空気」と呼ばれる微粒子は我々の体の様々な器官で、受信が行え、「感情」を作り出します。
例えば、耳が聞こえない人がいるとします。
耳が聞こえない人はこの"耳が聞こえる為の統合器官"を有していない状態といえる訳で、
これを利用した会話は利用できません。
音というのは面白いものです。
知らない外国語をしゃべる人との対話は成り立ちません。
それは言葉が違うから、と私は簡単に説明したつもりとなります。
音楽を再生する機器は、人が理解できる音を放ちますが、
それは会話ではなく、理解できない音は人は雑音と捕らえます。
聴覚器官とは何なのでしょう?
実にこれは同じ「夢」を見るカテゴリー、区分に属した人達の遊びと捉えることができるといえます。
そのインターフェース、会話手段としての基礎となるモノで、外部との接続手段な訳です。
人が理解できるもの、体験できるものは人は科学によって何時の日か、説明することでしょう。
人が理解できないもの、体験できないものは「夢」の範疇の外にあるものといえます。
私が霊体験をある程度、体験した後、モノの声を聞きました。
モノ同士の会話や、モノにとっての「愛」の概念です。
であるからして、私は人もモノもすべて同じと考えてます。
私はまったく現代科学では観測できない何らかの会話手段を用いて、
モノや、機械や、人や霊が会話していると信じます。
これが微粒子の移動は常に起こるという事実です。
それは思念や、思考なども含まれ、言葉も含まれますが、すべて微粒子です。
微粒子の振動がある故に宇宙は、宇宙として人の前に存在し続ける。
「感情」とは微粒子の"特定パターン"と言い換える事ができます。
現在見ている「夢」という名の身体に刻まれている微粒子が、
「空気」由来の微粒子と衝突し、「思考」を生み出します。
「夢」には幾つものが概念が微粒子として含まれます。
"概念"もまた微粒子の集まりなのです。
科学の世界では、粒子に名前をつけたり、現象を観測してばかりで、
思考の宿り先はまったく持って非科学的な世界です。
「空気」と身体に入っている「夢」が「感情」をつくり、「思考」を生み出します。
その思考が流れていない状態が「無」であるかと思います。
私は「無」の心となる状態が非常に多いです。
であるから、新しい汚い感情の集合である負の概念や、
幸せな感情の集合である正の概念を集めたがります。
これは宇宙の本能とも言えるところであり、生物の本能よりも、
もっと上位にある本能であるとも思います。
「無」というのはある瞬間、瞬間に訪れ、拡散していくものと思います。
「無」は人間によっては、付かず離れずのものではないでしょうか。」
感情制御によって、思考を耕し、ある時は過剰適応させ、
ある時は抑え込み、人は「無」の状態を作るわけです。
「無」と聞いて、仏教や、ヨガを思い出すかもしれませんが、
特別なものではないです。
『あーそれ聞きたくない!!』でも、思考停止と感情制御の果てに「無」は生まれるわけです。
これが「無」の話。
「無」に至るための技術は巷にあふれています。
心理学やら、ヨガやら、仕事術やら、漫画やアニメやら。
しかし、それが終わった後に「夢」を見出すのがまた人間というものです。
そして、ここから本題である「歪なゼロの概念」となります。
「無」から「夢」を発生させるが如く、
人は自らの持つ器官が体験できる"何か"を追い求めだします。
ここで、無から有にすること、もしくは有から無にすることに動きを感じる、
感動を得るわけです。
思考であっても、モノであっても、気持ちが動く点は同様です。
ゼロとは何も持っていない状態を表すことができます。
それをプラスにする為に、人はお金を貯め、人を動かし、自らの健康や家族すらも犠牲にしながら、プラスに持っていくのです。そういう物語であり、夢なのです。
この事実を広告として使うことができます。
つまり、今は無いことにフォーカス、焦点を当てるという事です。
これは、まだ食べたことのない料理、持っていないモノ、習慣とはなっていない高額商品の繰り返し購入、引き締まった身体、持っていない性格など津々浦々です。
これに焦点を当てた瞬間、それを所有するという夢を提供する訳です。
これによって、ひとまずお金は減りますね。
高額商品で自分の思い描いていた夢が実現できなった場合、「騙された!」と感じることもあるものです。
でも、自分でその夢を選んだ事実には変わりありません。
巷に跋扈する自己責任論とかいう思考の夢の話ではありません。
単純な夢とその結果と捉えてください。
そして、これが負の感情を発生させることがあるのです。
「騙された!」となった場合はその典型です。
例えば、結婚、良き伴侶、家、預金、学歴、自動車…これらを積み重ねていくことがあれもこれも所有している状態といえますが、例として掲げた数は、「+6」です。
「+1」より、「+6」の方が幸せという捉え方です。
でも、幸せな時間の時ってそんなものどうでもいいものです。
つまり、「歪なゼロの概念」とは、無いものに焦点を当てて、それを手に入れようとして負の感情が発生しているという状態を表す概念を指します。
勉強したくないのに、勉強を無理にさせられている受験生がいるとします。
本人も、そして、その親も「歪なゼロの概念」の適用下に居るといえます。
仕事でも同じです。
お金を稼ぐために、仕事を「しなければならない」と考える人がいるとします。
仕事に行くのが面倒、あの人に会うのが面倒、この仕事はしたくない、色々考えますが、これも「歪なゼロの概念」の適用下です。
パートナー探しでも同じです。
年収が高い人、自立している人、家事が出来る人、体格がいい人、食事があう事、癒される人である事、思いやりがある人、性格が合う人、理解してくれる事、守りたくなる人…
すべて、「歪なゼロの概念」の適用下です。
「歪なゼロの概念」を征服するのは、今の私にとっては、「ゼロの概念」、無、
もしくは「感情制御」、論理的思考、または、別の夢(+1の世界にする訳です)を見ることです。
他者との会話は、進歩的発想を生むことがありますが、最初期は「先送り」となってしまうので、私にとってはそれよりは前者の方を選ぶことが多いです。
「歪なゼロの概念」から発生する負の感情には、焦り、恐れ、怒りなど多種に渡ります。
これが感情提供の理からすると、あまり良くないものと思います。
良きものとするには、今ある事を感謝する為の言葉の羅列群が必要です。
即ち対偶の理論です。
お金を稼ぐために仕事をします。→今はお金がないという、お金を手に入れなければならないという「歪なゼロの概念」の適用下であるといえる。
更に仕事をした結果は、「幸せ」が待っているのであろうが、幸せとは相対的なものなので、「歪なゼロの概念」の適用下であるともいえるが、「感情制御」で手に入れた幸せは体感型で、時間差を利用した幸せになる方法なので、「ゼロの概念」が生み出す幸せと位置づけよう。→感情制圧の理から、この宇宙で幸せになれば、引き寄せの法則ですべての幸せのものが自分に集まってくる→そういった活動が仕事を生み出し、お金を生む。
こういった形で、『概念転換』を行います。
いつまでも明るい世界を目指して。