刈羽・椎谷観音堂~天拝山~大辻山正福寺華蔵院 | アスターク同人(Ⅱ)

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○刈羽・椎谷観音堂~天拝山~大辻山正福寺華蔵院
○投稿者 なめこタン

 

 柏崎刈羽原子力発電所と出雲崎海岸線のほぼ中間に観音岬、椎谷(しいや)岬と呼ばれる小さな出っ張りがある。灯台が建てられ、近くには真言宗豊山派の大辻山正福寺華蔵院(けぞういん)があり、周辺にはいくつもの宗教施設、石仏類や歴史遺跡が点在し、著名な椎谷観音堂の別当寺とされる。

 


  椎谷は江戸期椎谷藩の陣屋があった地で、藩主堀出雲守直之は関ケ原や徳川、豊臣の大阪冬夏の役の功績を認められ、家康からこの地に5,500石を賜る。後に下総の領地4,500石もここに替地され合わせて一万石の大名となる。堀氏は馬が好きで領民に馬の飼育を勧め、品種改良に傾注し馬市を開いた。椎谷の馬市として知られ、数千頭の取引があったという。ちなみに三万石以下の大名では、城を持たず、陣屋と呼ばれる施設で領地、領民を管理したものも多いとされる。
  原発から続く海岸線の道路が椎谷岬トンネルに入る手前から右手山中へ向かう細い道へ入る。すぐに観音堂へ続く石段の参道奥に赤い仁王門があらわれる。駐車地は門周辺の広場を利用する。

 

 

 

  先ずは閻魔堂である。仁王門に正対するような車道脇の小さなお堂は、目立つ標識や看板もなくうっかりすれば見落としがちだ。閻魔大王を中心に地獄の沙汰を決定する十王が並び、一段下には三途の川渡し賃六文銭代わりに身ぐるみを剥ぐ奪衣ババアも見える。近くには芭蕉の句碑があり“草臥(くたびれ)て 宿かるころや 藤の花”と記されてもこの地で詠んだものではなく、柏崎の俳人の対応を不快に感じた芭蕉はこの地での逗留を断念している。仁王様2体は目の細かい金網におおわれ、光の加減もあって表情は分かりにくいがなかなか立派である。
  石段を進めば小さな平坦地に頓入坊(とんにゅうぼう)の入定窟(にゅうじょうくつ=即身仏になるべく身を隠した地、真言宗究極の教義)と書かれた案内板がある。頓入沙弥(しゃみ)は刈羽村生明寺に住む暴れ者だったが、それを反省し、18年の時をかけ椎谷観音堂まで三百段の石段を独力で築き、寛政6年(1794)に入定したという。数体の地蔵様と石碑、そして近年整備された加工石に囲まれた入定窟がある。この一角に椎谷集落の美しい家並みを望める場所があり、柏崎まで続く日本海の展望が素晴らしい。

 


  盛夏は雑草におおわれるであろう石段の両脇には開花間近いまだ若いサクラの木が並び、のんびり登れば岬の灯台から続く車道と広い駐車場が突然あらわれる。前回の訪問はここから始まったのである。この先の石段は参拝者が多いためか比較的きれいになっている。ただ10数年ほど前の中越沖地震による影響か、段のズレがあちこちに見られ、奥にある寺社施設もかなりの被害を受けたようである。

  観音堂へ向かう登り始め左手に大龍上人廟跡があり、立派な石碑と小堂が建つ。大龍上人がどのような人物か知らないが、真言宗に関わる僧職であろうか。隣にはこれまた立派な銅造地蔵菩薩仏が建ち、二十三夜々伽の石物も目立つ。
  一段上がった平地に手水舎があり、ちょっと幼い感じのする不動明王が祀られる。ここには等身大から手の平にのるようなサイズまでたくさんの地蔵様がおられた。小さなお堂には消えかかった「いぼ地蔵」の木札がかかり、左手奥には一列に並んだ石仏が見事である。これは越後三十三観音札所巡りの仏様ということだが、いくら数えても観音菩薩だけで34体あり、ちょっと首をひねるところであった。

 


  さらに登ればいよいよ椎谷観音堂である。北隣には椎谷藩堀家が下総から勧請した新潟県内唯一の「剣の神、戦いの神」経津主命(ふつぬしのみこと)を祀る香取神社があっても、今日は触れない。 
  前回訪れたとき観音堂はまだ冬囲いされたままであったが、今回は囲いがはずされ全容を拝することができた。よく手入れされた茅葺の重厚な屋根に威圧感を覚えるようで、この地の人々がこのお堂を大切にしてきた気持ちが伝わってくる。堂内にはたくさんの絵馬や額、装飾品が並び、ちょっと雑然としている。無人の施設だけに奥にあるご本尊やもろもろは金網で仕切られ、細かく拝むことはできなかった。境内にはシイノキの巨木や樹齢1,000年と云われる大ケヤキがあり、場所違いと思えるような四重屋根の立派な宝物殿もある。歴史文化財的な絵馬や関連遺物、椎谷の海から引き揚げられた観音堂の秘仏が納められているらしい。秘仏の御開帳は、華蔵院住職一代に一回限りとされ、昭和59年を最後に現住職の時代の御開帳はこれかららしくチャンスがあれば拝観したいものだ。

 

  

 

  さて天拝山登山はこの観音堂と宝物殿のあいだの山道が起点である。竹林から畑地跡のソメイヨシノの樹間を進めば、やや不明瞭な山道ながら簡単に山頂125.6mに立つことができる。山頂には広場やこれといったものもなく、藪間にある地震で倒れた石仏の土台と日本海出雲崎方面の展望だけであった。ここも盛夏には歩きにくい山道となるのだろう。

 


  往路を観音堂まで戻り、宝物殿脇から不動堂を目指した。見事な竹林から溜まり水のような「ひょうたん池」をすぎ、田畑が見えるようになれば不動堂と明治天皇御膳水の湧水である。山頂からここまでの間、山仕事用と思われる枝道は何本かあるが、地図に頼らなくとも山屋の感だけで充分歩くことができる。多くの道は1/25000図に記されておらず、里山の地図読みが難しいことはここも同様だ。

 

 


  不動堂は最近建て直されたものらしく新しくきれいであった。金ピカの壇に入った不動明王を中心に仁王2体があり、足元には小さな不動、童子2体仏もある。ところがよく見れば、童子2体のうち向かって右は観音菩薩であり、いろいろな教えが混在する真言宗らしい仏像のようだ。お堂裏手に10mほどの細い滝がかかり、古い不動明王、観音菩薩像を祀った小さな古堂もある。

 


  最後は華蔵院を訪ねなくては今山行の締めくくりにならない。お寺は田畑の中を通る車道を岬方面へ歩けばどこかにあるはずと安易に考えたことが誤りであり、結局駐車地まで戻るはめとなった。

  海岸線を中心としたさして広くない椎谷集落を車で右往左往し、スマホ情報でやっと見つけた華蔵院である。仁王門入口から352号を柏崎方面へ400mほど戻った小さな三叉路を山側へ進めば華蔵院の石塔と参道があった。北に天拝山や椎谷陣屋跡が望め、開放的雰囲気のお寺である。参道の短い石段を登れば境内であり、お庫裏と一続きとなったやや小さな本堂が海へ向いている。お寺周りの外塀の一部が傾いており、平地であっても未だ地震の跡が残されていることに当時の被害の大きさを感じた。ここもまた子安地蔵をはじめ、たくさんの地蔵菩薩が祀られている。ここ椎谷一帯の宗教施設には驚くほど多くの地蔵様がおられ、まったくもってビックリである。閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされるらしく、そんなことが柏崎の閻魔市にも関係しているのだろうか。

 


  華蔵院は近年改装されたようで、内陣はきらびやかな装飾に満ちている。寺院としての壮大さに欠け、失礼ながらコンパクトなお寺と言えそうだが、わたしの好みには合致する。壇中央奥にご本尊の阿弥陀如来、その前面に真言宗のご本尊大日如来。向かって右翼に不動明王、さらにお大師様(弘法大師空海)。左翼には毘沙門天、そしてお名前は不明ながら真言宗の中興者と思われる聖人の座像が置かれる。
  左壇にはたくさんの位牌が整然と並び、華蔵院代々のご住職とご家族のものだろうか。賽銭箱前の合掌場所には本山の砂が入れられた座布団が敷かれ、住職のお母様と奥様がお相手して下さった。連れのミヨリンは奥様に御朱印をねだり、きれいな御筆印を眺め悦に入っている。このお寺では毎年豊山派の本山奈良の長谷寺へ檀家とともに参詣しているといい、そんな旅行も悪くないなあと感じた大辻山下山時であった。
  今日の全行程は普通に歩けば二時間程度だが、参拝や写真撮影に時間を費やしたことから二倍以上の時間がかかってしまった。とても登山の範疇に含める活動ではないが、二回とも好天に恵まれ楽しい時間を過ごすことができた。