「氷壁」、「風雪のビバーク」ETCを展望する | アスターク同人(Ⅱ)

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○「氷壁」、「風雪のビバーク」ETCを展望する
○投稿者 笹ヶ峰の仙人

 

  7、8年ほど前、穂高涸沢ヒュッテオーナーである小林銀一さんを囲む小さな会(総勢7名、当会では私とMクンが参加)があり、今では伝説ともいえそうなクライマー数人のエピソードを聞き、再びそれらの方々に関する文献、資料、小説を読み返してみた。あまりに有名なものばかりで今更の感があっても、事実と小説が絡み合い、私の中である種独特な世界観が構築されていたことを改めて思い出した。

 

 

  「新鋭登山家魚津恭太は、昭和30年の年末から翌年正月にかけて、親友の小坂乙彦と共に前穂高岳東壁の冬期初登攀を企てる。
  吹雪に見舞われる厳しい登攀中、頂上直下で小坂が墜落、深い奥又白の谷底へ消えていく。二人を結んでいたナイロンザイルが切れたのだ。必死の捜索にも小坂は見つからず、失意のうちに帰京する魚津。世間では『ナイロンザイルは果たして本当に切れたのか』と波紋を呼び、切れるはずのないザイルをめぐって魚津はその渦に巻き込まれていく。」


  これが小説「氷壁」のプロローグである。氷壁は井上靖(1907-1991)代表作のひとつであり、昭和31年から1年半にわたって朝日新聞に連載された長編小説だ。登山、恋愛そして最後は主人公の死へとつながるヒロイズムは、その後の日本の登山ブームを形成した最も大きな要因のひとつとされている。

  実をいえば小説のプロットは、その前年、昭和30年におきた前穂高岳東壁での三重岩稜会のナイロンザイル切断遭難(東壁Aフェースを登攀中、3人パーティーのトップ若山五郎が墜落死する)をモチーフとしており、さらには、主人公魚津が落石に打たれて死亡する北穂滝谷での手記は、昭和24年槍ヶ岳北鎌尾根で壮絶な死を遂げた、東京農大そして東京登歩渓流会の会員松濤明(注1)が残した遺書を彷彿とさせるもので、これらは多くの者が知るあまりに有名な事実だ。因みに登歩渓流会はアスターク会員のYさんが在京時在籍していた山岳会である。
  小説では魚津のほかにも、2つの遭難に関わる実在の人物何人かが描かれ、山岳、社会的に不快ともとられる問題が投げかけられたものでもあった。ひとつにはザイル切断事件からどれほどの時間もおかず、それを素材とした小説が大新聞紙面を賑わすことなど、遭難当事者、関係者からは戸惑いの声が上がっていたという。その当時、岩稜会の遭難はザイル問題を中心として、確とした原因が究明されておらず、死亡した若山五郎の実兄、後の鈴鹿高専教授石岡繁雄(1918-2006)の井上靖に対する憤慨は極めて大きかったらしい。直近の遭難事故からわずか1年あまりで2つの事件を組み合わせた構想に、井上の卓越した能力は感じられても、登山を生きがいとする者にはやはり首を傾げざるをえないものがある。
  ナイロンザイル事件に限れば、氷壁に登場する八代教之助は大阪大学工学部教授篠田軍治(1904-1990)ということが容易に想像され、八代の妻美那子は架空の人物であろうが、前穂高岳で死亡した小坂乙彦と秘められた一夜をもった女性である。
  岩稜会の遭難で実際に使用された東京製綱製のザイル切断実験をしたのが篠田教授であり、鋭角であるべき岩角の面取りをした捏造実験であるとして、後日石岡らに名誉毀損で告訴されている。篠田、石岡ともに応用物理学を専門とした研究者のためもあって、その方面でも一時話題になった。余計なことながら篠田はその後、同学会の会長職を2年間務めている。そして、日本山岳会関西支部長であった篠田を後に名誉会員とすべく動いた日本山岳会と石岡の確執もここに始まることとなる。
  しかし、この事件を契機とした石岡のナイロンザイル研究が、世界で初めての登山用ロープの安全基準となり、その後の国内PL法制定のワンステップになったともされ、この実験に依拠してナイロンザイルの安全性を謳った日本山岳会編昭和31年「山日記」が、同52年の「21年目のお詫び」記事となる事態へ連綿とつながるのだ。

 

                   左から松濤明、上条嘉門治、有元克巳

 

  「一月六日 フーセツ
 全身凍ッテ力ナシ 何トカ湯俣迄ト思ウモ有元ヲ捨テルニシノビズ 死ヲ決ス
 オカアサン アナタノ ヤサシサニタダカンシャ 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス 何ノコウコウモ出来ズ シヌツミヲオユルシ下サイ 井上サンナドニイロイロ相談シテ。
  井上サンイロイロアリガトウゴザイマシタ、カゾクノコトマタオネガヒ。手ノユビトーショウデ思ウコト千分ノ一モカケズモーシワケナシ、ハハ オトウトヲタノミマス
 有元ト死ヲ決シタノガ六・00 今十四・00 中々死ネナイ 漸ク腰迄硬直ガキタ

 全シンフルヘ 有元モHERZ ソロソロクルシ ヒグレト共ニ凡テオワラン
 ユタカ ヤスシ タカヲヨ スマヌ ユルセ ツヨクコーヨウタノム
 サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺ニスツルモイノチ共ニユク(松ナミ)」

 

 槍ヶ岳北鎌尾根で発見された松濤明が残した遺書の一部であり、多くの登山愛好家が知る有名なもの。捜索隊の全員が涙して読んだ一文だ。朋文堂から出版された遺稿集「風雪のビバーク」に全文が載せられている。

 「氷壁」における魚津の最後の手記は次の通りだ(もちろん井上靖の創作)。


  「D沢ニ三時半ニハイル。落石頻々、ガス深シ。
  四時三十五分グライ、ツルム付近ニテ大落石ニ遇ッテ負傷。
  涸沢岳ヨリ派出セル無名尾根ノ露石ノ蔭ニ退避、失神。
  意識ヲ取リ戻ス、七時ナリ。大腿部ノ出血多量。
  下半身痺レテ、苦痛ナシ。
  ガス相変ラズ深シ。
  意識間歇的ニモウロウトスル。コノ遭難ノ原因ハ明ラカナリ。-ガス深キヲ敢テススミシコト。落石頻々、異常ナルヲ顧ミザリシコト。一言ニテ言エバ無謀ノ一語ニツク。
  高名ナ登山家デ避ケ得ラレル遭難ニオイテ一命ヲ棄テシモノコレマデ多シ。自分自身マタソノ轍ヲ踏ムコトニナッタ。
  ガス全クナク、月光コウコウ。二時十五分ナリ。
  苦痛全クナク、寒気ヲ感ゼズ。
  静カナリ、限リナク静カナリ」

 

 そしてこの手記を捜索隊から受け取ったのが魚津の恋人であり、小坂の妹かおるであった。夏山盛期前、7月初旬の穂高小屋未明の頃である。

 

  昭和33年6月に創刊された山と渓谷社の「岩と雪1号」(平成7年169号で休刊)に、登歩渓流会を代表する人物杉本光作(1907-1980)の「回想の松濤明」があり、最終段に次のような記述がある。
  「松濤君は錫杖にいったとき、ひとりの女性と知りあっている。この女性と北鎌の帰途、上高地で会う約束のあったことを、私たちはうすうす知っていた。そのひとは、松濤君なきあとの登歩渓流会に入会して、現在、松濤君にかわって、彼女なりに後進の指導や会の面倒をみている。そんな、悲しくもまた美しい事実があることを付記しておきたい。」、ここに書かれた女性こそ、後の奥山章(注2)夫人となる芳田美枝子さん(1930-2008、後に奥山-山田。登歩渓流会入会後は穂高屏風岩、北鎌尾根などを登る)であり、小説に描かれた小坂かおるである。この女性の存在を井上に知らせたのが登山家であり、作家でもあった安川茂雄(1925-1977、本名長越)とされている。小説のモデルが定まったひとりとは限らないが、穂高で遭難、帰らぬ恋人を待つ設定として彼女は第一級の存在である。そして、美枝子さんにとって初めての北鎌尾根は、松濤の死から10年後の秋であった。


  芳田美枝子さんに関して、平塚昌人(1965-)が「二人のアキラ、美枝子の山」(2004年文藝春秋社)を著している。彼女の消息については、一時期北陸芦原温泉近くの介護施設に入所されていたと聞いてはいても、山田夫人としてのその後やご家族のことは知る由もない。山の遭難で恋人を、病の果ての自殺で夫を、「二人のアキラ」を失った彼女の心情は如何ばかりのものだったろう。時間が悲しみを和らげてくれたにしても、日本を代表したクライマーの傍にいた女性の気持ちと二人への当時の思いを不謹慎ながら直接伺ってみたかったようにも感じられる。同書は著者と彼女の書簡を中心としており、そう古いものではなく探せば難なく見つけられると思う。ぜひご一読あれ。

 

            「ザイルを結ぶとき」から。画像編集作業中の美枝子さん、奥山章


  奥山は好きな山に生きた夢追い人だった。日本アルプスでの先鋭的な登攀活動、登山技術の体系化、出版社との関わり合いから幾多の執筆活動に取り組んだ。だが辛辣にいえば実社会からドロップアウトした、経済的にはかなり困窮した日常をおくっていたようだ。山用品店を始めても経営感に乏しく、有名を引きずる殿様商売がそう長く続くはずもなかった。タイプは違っても、ヨーロッパアルプス・グランドジョラス北壁ウォーカー稜に逝った現代日本を代表するクライマー森田勝の赤貧生活同様、奥山夫人にもやはり苦しい時代であったろうことが推察される。

 奥山最後の商業活動となるのが「オクヤマ・フィルム」による山岳映画、ドキュメントであった。美枝子さんというよき理解者を得て、日本アルプスからヨーロッパ、ヒマラヤへと映画製作を進めた。順調に見えた活動にあって、若き体を病魔がむしばんでいたことは日本登山界の誰も想像できなかったことだ。

 

  三流週刊誌のヨタ記事紛いでグチャグチャ記しても、それぞれ私などがあれこれ述べるようなものでないことは当然だが、若い人の書籍離れが嘆かれる昨今、そんな事情を知って小説「氷壁」、「風雪のビバーク」「ザイルを結ぶとき」に接するのも興味を引き立たせる一手かも知れない。山屋であれば、テレビ・インターネットをはじめとした映像・情報ばかりでなく、いろいろな文献ことに古典と称されるようなものに接する事も極めて大切なことだと思っている。
  新潮社「氷壁」の解説で、佐伯彰一(1922-2016、遠藤周作「海と毒薬」の解説もあり、東京大学名誉教授、評論家)が以下のように述べている。「自然対都会、孤独な全身的行動対無意味に錯雑した『人事関係』という対立が、結局のところこの小説をつらぬく劇的な基軸なのである」と。

 

 注1:松濤明(1922-1949)大正11年3月、仙台生れ。東京府立第一中学(現都立日比谷高校)から山を目的に松本高校(現信州大学)を目指す秀才であったが、下山が間に合わず松高未受験。その後登歩渓流会入会、東京農大入学。昭和14年北穂高滝谷第一尾根冬季初、昭和17年北岳バットレス中央稜初。大戦の召集を受け、3年後昭和21年に復員。谷川、八ヶ岳等の登山記録とともに時評・論評も多い。昭和24年槍ヶ岳北鎌尾根にて有元克巳とともに遭難死、同年7月千丈沢側で遺体が発見された。

 

 注2:奥山章(1926-1972)大正15年8月、東京生れ。東京海上火災、日立製作所を経て執筆活動、山岳映画に関わる。昭和33年北岳バットレス中央稜冬季初、同年一ノ倉沢烏帽子凹状壁冬季初。植木毅(妙高市池の平在住)の滝谷スキー初滑降、ヨーロッパアルプスモンブランなどにも同行。昭和40年芳田美枝子と再婚、RCCⅡ、AGSJの設立運営に関与。山岳界では「奥山ラッパに吉田ブシ」と言われ、論客ぶりを発揮した。昭和47年、不治の上顎ガンに苦しみ自宅にてみずからの生涯を閉じた。遺稿集「ザイルを結ぶとき」-編集の松山荘二(本名、吉田二郎)は“世にも不思議な物語”とされた大スキャンダルを抱えた人物-があり、夫人による“奥山章の死-夫のいびきをめぐる回想”が収められている。