こんばんはあっそうかですそ


今日は以前記事で書いた通り大学の教授に中国語の質問を見てもらっていただいておりましたよろこび

その教授は一年契約でうちの大学に来て僕たちに中国語を教えてくださってくれているそうで、今年の三月には中国のほうに戻られると思うととても寂しい気持ちにもなりましたが、たまたま授業で受け持った生徒の為に休みの日も大学まで来て下さる老師の為にもより一層気を引き締めて頑張っていきたいと思います!

中国語に出会って一年も経っていないあっそうかですが、ご厚意で毎週面倒を見ていただいている老師の御恩に少しでも報いれるよう、出来るだけ少しでも早く上のレベルに近づきます!

明日はHSK二級の例文を写して、それが終わったらこれまでの例文をチェックして、で過去問演習に入りたいと思います!

最後は本日老師よりいただいた言葉で締めくくりたいと思いますほのぼの

好好学習天天向上!


意味はなんとなく分かるかと思いますが、よく学び、日々向上せよという意味です!

一瞬ブログのタイトルにしようかと迷った位良い言葉ですね好


では大家再見くろねこ



おまけ


最近思うことについて少しぼやきたいと思います。

見たくない方はもう読むのをここでやめてくださいね。

今日は 他人に認められたいという欲求について書きたいと思います。

人間なら誰しもが思ったことはあると思います。他人に認められたい、評価されたい、さらに発展すると敬われたい、好かれたい、自分だけを見てほしいということを。今のスパイラルで僕が問題だと思うのは、他人への承認欲求が相手を縛るレベルでの愛情を求める欲求へと変化してしまうという、異性への気持ちの変化です。異性へのというと一部語弊がありますが、人間があくまでも動物である以上、子孫を残すためには自分と相対する性を持つ人への気持ちの変化に苦しむということは、避けられないということは事実です。しかし、そういった苦しみをある程度軽減完全でなくともコントロール出来る程には、我々の理性は発達しているはずです。では何故、他人に認められたいという気持ちがそこまで歪んだ異性への気持ち、つまりは願望にまで変化してしまうのでしょうか?

それは自分の理性の存在に気づけていないからです。正確には上記のような状態では本能や感情が優先してしまって、理性を持っていることさえ人は気づけなくなってしまうのです。一度、冷静になって確率的に考えてみると、人にちゃんと認められか認められないかなんて五十パーセントです。黒い箱に入った猫と同じでふたを開けるまでは、つまり誰かと出会いそれなりに時が経つまでは、その人に認められるかどうかは五十パーセントの確率であり、大して低いわけではありません。にもかかわらず、過去にいじめや避けられたことがある人、彼氏が居なかった人は自身の価値をこれから出会う誰に決められたわけでもないのに、低く低く見積もってしまう傾向があります。そして、誰かに少し認められるともうその人の事しか見えなくなり、上記のよおうな矛盾を孕んだスパイラルに陥ってしまいます。そして、その人が評価している人が自分だけではない、もしくは自分が一番評価されていないと気づくと、自分が傷つくのを嫌悪しその人に責任転嫁をし始めます。その人は、一緒に時間を過ごす友達として、仲間として評価しているにすぎなかったにもかかわらずです。

人間だれしも本能が伴う大きな感情に向き合わなければならない時は生きている間に何度もあります。しかし、そんな時こそ理性を手に取り、本能に従い相手を求める以外の生き方を考えることも大事なのではないのでしょうか?せっかく人間に生まれたのですから。