草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ -38ページ目

草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

 時間が無いので、「X」での投稿をいくつか紹介するにとどめます。

 

 ユダヤ人の中でも超正統派と言われる人々は、イスラエルの建国自体がユダヤのために対する神の教えに背いていると考えています。

 彼らの一部は、現在イスラエル国家を解消して、パレスチナをパレスチナ人に返すべきだと主張しています。

 

 

 

 

 

莽崛起(The Rising Multitude)

 ある方のブログを見たらこんな風に書いてあった。

市場では需要のない(=使用価値のない)商品は価値がありません。これは自明です。

 これは少しも自明ではない。〈需要〉は、購買力の裏付けのある購入欲求である。需要者側の事情に左右されるのである。さらにそれ量的な概念である。 

 これに対し、〈使用価値〉は、有用物の客体的な属性、機能なのであって、需要者、利用者側の事情には左右されない、対象物それ自体の固有の特性 property である。

 なるほど、使用価値のない「商品」には、需要は生じない。しかし、この記述にも混乱がある。そもそも、使用価値がない「商品」なる物は、存在しない。有用物たること、使用価値を持つことはその対象物が商品でであるための前提条件なのである。

 使用価値のない物体は、商品ではないのだから、需要もなければ価値もない、それは確かに自明である。しかし、このことを上記のように表現するのは、ただただそのように表現するものの理解の混乱ぶりを示すことでしかない。 

需要がなければ投下労働量が大きくても市場価格はゼロです。 
 価値と価格は異なる概念である。マルクスは、価格が価値から乖離することについて、価格のこの性格は、価値法則が商品生産を規制するうえでむしろ好都合な事情であると指摘している。
 価値と価格の概念上の区別を知らないものだけが、「売れないものには価値がない」と考えることができる。「売れない商品」は、実際には価値がないのではなく、価値があるにもかかわらず、その価格としての実現が種々の事情で妨げられているにすぎない。
 例えば、支払い能力などの買い手側の事情によって価格としての実現が妨げられている場合は、売り手は価格を引き下げることによってその商品の価値を部分的にあるいは全部的に価格として実現できる。「全部的」というのは、当初の価格が価値以上であった場合は、価格引き下げを行ってもなお価値通りの価格、またはそれ以上の価格が実現することもありうるからである。いずれにしても、この場合価値は、価格変更の規制基準として機能することは言うまでもない。
 批判対象となる理論を誤読、誤解したままで一体どのように超克しようというのだろうか。まったくもって不可解である。
 
 

莽崛起(The Rising Multitude)

「社会主義」(アソシエーション社会の初期段階)では、「労働に応じて受け取る」、より高度の段階’いわゆる「共産主義」)では、「必要に応じて受け取る」となります。

 資本主義の場合は、どうかというと、「能力」を技能などに限定せず、精神的な健全性や体力を含めて考えれば、過労死・過労自殺、過労が原因とみられる肉体的・精神的な労災申請が一向に減らない現状は、「能力(労働)に応じて受け取れない」だけでなく、そもそも「能力を超えて」労働させられているという状況にあるのではないでしょうか。

 話を戻しますが、資本主義の後にくる社会(アソシエーション)の眼目は、労働と取得の関係の前提である生産過程の編成原理にあると考えます。さらにその枢軸は、直接生産過程で手を下す現場の人々が、生産諸手段をどのように扱うかという点です。彼らが互いにどのような関係を形成し相互でのどのような資格・立場で生産諸手段を取り扱うのか、その際、生産諸手段は誰の意思に従って取り扱われるのか、こういった点です。

 資本主義においては、労働者は、それぞれ排他的に資本と契約を結び資本の指示に従って、ただその限りで、つまり非自発的に労働手段を集団利用の対象として取り扱います。

 それに対してアソシエーションの労働主体は、自分たちの協議した計画に従って自発的に、労働手段を協同利用の対象として取り扱います。つまり、生産活動は労働者自主管理として遂行されるということです。これが、労働に応じた取得や、そのもとでの生産力の発展(労働に応じた取得が労働へのインセンティブになることもその要因の一つ)の結果である「必要に応じた取得」の前提=基盤なのです。

 

莽崛起(The Rising Multitude)