〔2012/8/9(木) 午後 4:32のエントリー〕
産業的生産様式とその道具(=「既成制度」)について、イリイチはいう。
《工場、報道メディア、病院、行政府や学校は、われわれの世界観を封じこめるようにパッケージされた財、サービスを生産する。われわれ──豊かなものたち──は進歩とはこれらの既成制度(エスタブリッシュメント)の拡大だという風に考える。われわれは、移動性の向上といえば、ゼネラル・モーターズ社とボーイング社によってパッケージされた豪奢と安全性のことだと考える。また一般の福祉改善といえば、医師や病院の供給をふやし、健康と苦しみの引き伸ばしを一緒にパッケージすることだと考える。われわれはもっと学習を進める必要と、さらに長時間の教室内監禁への要望を同一視するに至った。》(『オルターナティヴズ』P.211。)
《産業化された各社会はこれらのパッケージを、個人消費用として市民の大部分に提供できるが、そのことは決してこれらの社会が健全であり経済的であり、あるいは人生の質を高めてくれることを証明するものではない。むしろその逆である。市民がパッケージ化された財、サービスの消費の面で訓練されればされるほど、かれは自分自身の環境の形成にあたっては実効を持たなくなってくるように見える。彼のエネルギーや資力は、自分の基本的商品(staples)のつねに新しいモデルを購入することに費やされ、環境は彼自身の消費習慣の副産物になってしまう。
[中略]だれもかれもマイカーを“必要とする”限り、われわれの諸都市は、いっそう長時間の交通渋滞と、それを軽減するための馬鹿らしいほどの金のかかる対策とに悩まされなければならない。健康が最大の寿命延長を意味する限り、病人はますます異常な外科的処置を受け、それに伴う苦痛を殺す薬剤も必要となろう。子どもたちが親をうるさがらせないようにし、あるいは街頭や労働現場から子どもたちを引き離しておくためにわれわれが学校を利用しようとする限り、われらが青少年は際限ない学校化のとりことされ、この苦難に耐えるためますます多くの刺激を必要とすることになるだろう。 》(同上、P.212)
学校は、私たちから自分で学ぶ能力を奪い、近代的交通システムは、同じく自分の足で歩く能力を奪い、病院は、本来備わっている自然治癒力を衰退させると、イリイチはいう。
それほど矛盾に満ちた既成制度による人間の支配が、今まで維持されてきたのは、「専門家権力」が、こうした仕組みを正当なものだと人々に思い込ませているからであると彼は考える。
《商人は仕入れてある品物をあなた方に売る。ギルドのメンバーは、作った品の品質を保証する。職人のなかには、あなたの寸法や好みに合わせて、品物を作ってくれる人もいる。ところが専門家は、あなたが何を必要としているかを断定し、処方を書く力を自分たちはもっているのだと主張する。彼らは、良いものを推薦するばかりではなく、実際に何が正しいことかを決めてしまう。専門家を特徴づけるものは、収入でもなければ、長期の訓練、デリケートな任務、あるいは社会的格式といったものでもない。むしろ、人を顧客と定義し、その人の必要を決定し、その人に処方を申しわたせる権威こそ、専門家の特徴なのである。》(『専門家時代の幻想』P.18)
しかし、イリイチは、今は、こうした「専門家権力」と「既成制度」の支配に人々が疑問を持ち始めた時代であるという。彼によれば、現代生活様式にかわる新しい社会の特徴を予言することはできない 。確かに、現実の社会にかわるものを空想するのは、社会科学の仕事ではない。現実の社会の中に、既に形成されている新しい社会の条件を発見するのが社会科学の仕事である。ただ、イリイチの場合は、空想を退けるだけで、あたらしい条件を指摘していないので、彼が、中世の職人や農民の生活を理想化しているのではないかという疑問を、人々は拭いさることができない。
《 さて、私の見る限り、あなたのユニークな見解は、つぎのような点で世間から若干誤解を受けるおそれがあるように思われます。それは、イリイチさんの考えはいたずらに過去を賛美するというか、現代の危機を克服するためには昔に戻ったらよい、というふうに誤って理解する人がいるのではないかということです。》(イリイチとの対談「現代産業文明への警告」での玉野井芳郎の発言、玉野井『生命系のエコノミー』p.227)
人間を支配する道具を、それを使う人が自在に使いこなせる道具に転換するといってもそれがかつての職人の道具のようなものであるとしたら、それは、特定の道具とそれを使う特定の職人との関係の中でだけ、人間の自律性が実現しているだけである。その職人は、彼の仕事場の外では少しも自由ではない。あるいは、他者との関係において自由ではなく、封建領主や親方に人格的に隷属しているのが普通である。人格的隷属の問題は、ここでは抜きにするとしても、孤立した人間が、道具に対して「これは自分のものなんだ」という態度で関わることができるのは、道具そのものの発展度も低く、人間相互の交流の地域的広がりもあまりない小さな孤立的社会の中だけである。(つづく)
コメント
・[ バッジ@ネオ・トロツキスト ]2012/8/9(木) 午後 6:59上記の主張は、都留重人さんのGDP神話批判や宇沢弘文氏の『自動車の社会的費用』が登場する以前、代々木が「生成期社会主義」論なんていう中途半端な自己弁護論を得意げに言いふらしている前からの自説ですが、そのきっかけは『剰余価値学説史』や『帝国主義論』研究でした。
「犯罪者は犯罪を生産するだけでなく、刑法をも、またそれと同時に刑法を講義する教授をも・・・・・(さらには、その教授が執筆する)概説書をも生産する。これによって(ブルジョア)国民的富の増加が生ずる」(『学説史』 カッコ内は引用者)云々やレーニン『帝国主義論』中での寄生性・腐朽性批判です。
やはり、「実在する当為」や「非理性的形態での理性の現在」としてのビジョン研究は不可欠でしょうね。20世紀の「青写真論批判」は国家資本主義による社会主義僭称に加担する教条でしかなかったように思いますよ。[ バッジ@ネオ・トロツキスト ]2012/8/9(木) 午後 7:00
こういう粗雑な議論は、容易にペシミズムやナロードニキ的ロマンチシズムに結びつきます。そして真の改革方向を見失わせる。
当方は、そう言う状況からもマルクス的な産業構造論や再生産論の発展が急務だと主張しているんです。