田原真人という方が非常に面白い見解を提示なさっています。
個人と組織と社会とがフラクタル構造であると感じられるようになり、自分の生き方、組織の在り方、社会の在り方とが重なり合うようになっていく。このような個人を「全体的個人」と呼ぶことにする。
「全体的個人」にとっては、社会の問題は、自分の問題である。必然的に社会活動に関わるようになる。関わり始めると、課題解決と資本主義のルールとがぶつかり、矛盾を内部に抱え込むようになる。
〈社会を内包する「全体的個人」〉というのは、《諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性》(マルクス『経済学批判要綱』)に通じる。
有井は、『要綱』の上記引用個所にとどまらず、マルクスは、その理論の確立(基本的枠組みの定立を有井は「ヘーゲル国法論批判」執筆時とみている)以降、一貫して一つの個人が、もちろんそれぞれの立場から、他社との関係を自己のうちに媒介契機として取り込んでいるととらえているという理解を提示している。
《主体としての諸個人の意味は,人間個人一般であり,これは総体としての諸個人として現実的であるが,同時に1個の一般的個人としても実在的であり,理論的には実在する1個の一般的個人において把握しなければならない。諸個人は自己の主体性の発現過程たる労働の過程において,自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している(社会的労働!)。主体とは再三強調したように自己の諸前提を産出しつつ自己関係する自立的運動であるが,個人はこのような主体として,自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定しているのである。1個の個人において実在する同一の主体的自己媒介運動は,同様の自己媒介運動構造をもつ他の諸個人を前提するとともに自己のために措定している。それゆえにはじめて, 1個の主体は一般的であり,すべての諸個人に妥当する。》(有井行夫「マルクスの社会ヽンステム把握と矛盾論・疎外論・物象化論」)
この関係構図はちょっとイメージしにくいだろう。そこで、例えば、インターネットとそこにつながれた個々の端末を考えてみるとよい。僕は自分の端末で世界中のWebサイトを利用してメールの送信や情報探査を行っている。同じことはネットワークに接続されている全ての端末においても、それぞれに行われている。
人間は、実は最初からインターネット的な存在構造をとっていたのである。各々人間が、他者との関係を自己の一部として取り込んでいる、あるいは、自己の延長(アタッチメント)として生身の身体装着しているのである。
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