三戸公 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「歴史は資本主義から社会主義へという把握にかわって、財産中心社会から組織中心社会へ非連続的に移行しつつあるととらえるべきである。」「人を結びつける紐帯は市場から組織それ自体になる。個人の社会的地位・社会的機能・所得をきめるものは、’いかなる財産をもつかではなく、どの組織体に属し 、組織の中のどの地位についているかによって決まってくる。」。社会主義社会といわれる社会は、国家なり自治体なりの公的機関が支配的な所有者となった社会にすぎない。個人の富の所有は、その人に社会的地位・社会的機能をもたらさないような社会になってきたのである。富が財産としての役割を果すことが減少せしめられるにつれて、個人に社会的地位・機能を与えるものは、その人がどれだけの能力をもっていかなる組織に属しいかなる職位につくかによるようになってきた。組織中心の社会になってきたのである。」(三戸公r財産の終焉』文眞堂、1982年)

 

三戸は、このような変化――資本所有・株式所有の支配的地位はいつの間にか、個人から機関・制度(institution)=組織体にかわってきた」――を以って、もはや資本主義社会ではないと捉える。しかし、資本主義は、物象としての資本の支配を意味するのであって、その運動の人格的担い手が、自然人であるか、組織体であるかの違いによって資本による支配という事態に変化が生じない以上、それは依然として資本主義である。

 

 三戸が問題にしている「変化」は、物象の支配は、物象の運動にとっての自然人が齎す諸々の制約を乗り越えて貫徹するが、そのために自らの運動を自然人ならざる組織体に担わせざるを得ないという事態に他ならない。もちろん、このことは、資本にとっては、それなりに重大な「変化」である。自然人から組織体への担い手の移行は、資本の支配の十全な貫徹、支配の一層の深まりだけを意味するものではなく、むしろ支配の綻びが、そこに同時に含まれていることを意味する。すなわち「自由な私的諸個人が構成する社会」という資本主義の正当化形態の破綻を意味するのである。