同一目的にもかかわらず、ある主体の実践の過程が他の主体の実践過程に包摂されていて、この意味で過程も主体も二重化しているケース(芝田参照*)と、包摂的な過程と被包摂的な過程の目的がそもそも異なっている場合とでは、等しく〈矛盾〉といってもその内容は大きく異なる。小田氏の議論は、この二つを混同している。価値増殖過程と労働過程はそもそもその遂行目的が異なっている。価値増殖過程は価値増殖の実現を目的とした労働であり、労働過程は使用価値の形成を目的とした過程である。
価値増殖過程も労働過程も等しく最小費用の原則に従うものであるが、しかし、両過程では、過程の主体が異なるがゆえに、その費用もまた違った観点から評価されることになる。価値増殖過程における費用は、資本家的費用、すなわち不変資本・可変資本である。資本として投下された貨幣的費用(あるいはそこに対象化された価値=死んだ労働)のみが費用として妥当する。他方労働過程における費用は、労働過程の遂行主体が支出する労働力、すなわち生きた労働と生産手段に対象化されている死んだ労働の総計である。
価値増殖過程の主体は、生きた労働の支出がどれほど増大しようと、それが可変資本価値に反作用して可変資本価値を増大させることがない限り、労働主体の負担増には一切配慮しない。
他方、労働過程においては、目的として設定された質的水準で、設定した数量の使用価値を生産するために、いかに生産手段と人間労働を節約するかが追及される。これは、指揮者・被指揮者が共同で追求する課題である。認識の違いから両者の意見が齟齬きたすことはありうるし、これは確かに一つの矛盾ではあるが、この齟齬は、必要な使用価値を生むために投入すべき生きた労働と死んだ労働の総計の節約という共通の目的に即して、調整可能なものである。したがって、指揮者と被指揮者の間には管理者と被管理者の間にあるような敵対的矛盾は存在していない。(僕と君、主と奴)
*「教育労働の過程は、児童の側からみれば学習労働の過程であり、また教育労働者の労働条件ない し労働手段(学校、教室、教材、実験器具等)は、同時に児童の学習条件ないし学習手段でもある.もちろん、教育労働の過程は学習労働の過程と決して同一で はない.児童の学習労働は教育労働の統制のもとにおかれるのであり、教育労働と学習労働の矛盾は、すべての労働過程にみられる指揮労働と被指揮労働の矛盾 に比しうる」(芝田進午『現代の精神的労働』二七七ページ)