マルクスには、共同性の高次復活という考えはないというご理解のようですが、果たしてそうでしょうか。
《この危機は、資本主義的生産が消滅することによって、(すなわち)近代社会が最も原古的な型のより高次な形態たる集団的な生産と領有へと復帰することによって、終結するであろう。》(「ザスーリチ宛の手紙」の下書き〔第1稿〕)
《資本主義的生産が最大の飛躍を遂げたヨーロッパおよびアメリカの諸国民のただ一つの願いは、協同的生産をもって資本主義的生産に代え、原古的な型の所有のより高次な形態、すなわち〈集団的〉共産主義的所有をもって資本主義的所有に代えることによって、おのが鉄鎖を打ち砕くことにほかならない。》(同第2稿)
以上は、お取り上げになっているモルガン『古代社会』からマルクスが行った抜粋とも合致しています。
以上から、マルクスにも彼なりの共同体の高次復活論は、あったということがわかるでしょう。
誤解しないでいただきたいのですが、だからといって「マルクスは間違っていない」といっているわけではないのです。
問題は、あなたの復活論とマルクスのそれとの違いではないのでしょうか。
「マルクスには復活論がない」といって済ませたのでは、マルクス批判は、浅薄なものにならないでしょうか。いや、そもそもマルクスが復活論に言及している以上、「ない」という批判は明らかな間違いであり、批判として無効です。
むしろ、「高次復活」の「高次」とは、何かという点でマルクスを追及し、その問題点を指摘する方が、批判としてはるかに有効ではないのでしょうか。
つまり、復活論のあるなしではなく、復活論の内容で争うべき、マルクスを批判すべきではないのですか?
Revival - Robin Mark