前回なぜか、尻切れトンボの形で投稿されてしまったので、再度完全版を投稿します。
リン・ホワイトが『機械と神』(みすず書房,1972年)で提起した、キリスト教の人間中心主義が環境破壊に少なからず責任を有するという批判を受けて、キリスト教の側から、新たな聖書解釈としてスチュワードシップ論が展開された。
中川は、この立場について次のように論評している。
〈環境破壊の解決方法として提起されているスチュワードシップ論は,「神となった人間が《仲介者》の位置にまで下降せよ」と提言しているに等しい.三階層構造を前提としているので,人間にとっては,《仲介者》の位置への回帰に他ならない.スチュワードシップ論とは,図1 の右端の三角形で示したように,神の位置に就いた人間を《仲介者》の位置にまで戻す試みである.〉(中川洋一郎「地球環境の悪化とユダヤ・キリスト教の人間中心主義」経済学論纂〔中央大学〕 57巻3・4合併号 2017年3月)
三層構造については、説明が必要だろう。
中川は、以下のような、牧畜の原基形態〔中央〕とそこから、派生するキリスト教的型とユダヤ・イスラム教型の牧畜という3形態の存在を指摘する。ユダヤ・イスラム教型が、限りなく2層構造化していくのに対して、キリスト教型は、ヒツジとは異質の犬を仲介者とすることによって3層構造がより明確化する。そして、このキリスト教型牧畜形態がヨーロッパ文明の基礎にあり、今日の工業化社会にもつながっているのだと、中川は主張する。
牧夫―去勢ヒツジ―ヒツジ 牧夫―仲介者―ヒツジ 牧夫―犬―ヒツジ
ユダヤ・イスラム教型 ← 原基形態 → キリスト教型
牧夫を神に、仲介者を人間に、そしてヒツジを自然に置き換えれば、次の図式が得られる。
神―人間―自然
リン・ホワイトによって批判された近代キリスト教社会の自然に対する態度は、仲介者である人間が神に成り代わり、三層構造の頂点に立った状態に当たるわけである。
人間
スチュワードシップ論は、これを再びもとの《神ー人間ー自然》に戻すだけでしかないというのが中川の指摘である。そして、さらにもう一歩踏み込んでこう述べる。
〈 《ヒツジ》化以外の仕組みを想定できないから,結局,三階層構造の枠内での議論に留まってしまう.つまり,人は牧夫――《ヒツジ》化された自然を資産・資源として支配し、利用しつくす者[引用者]――の位置に就くのか,それとも,《仲介者》――資産・資源としての自然の管理・保全をより上位にある存在から委託されている者[引用者]――の位置に就くのかという議論の枠を出て行けない.どう転んでも《ヒツジ》は殺されて,消尽される運命にある.それは,「どう転んでも自然は,資源化されて,消尽されてしまう」ことと同義である.スチュワードシップ論は真剣かつ真摯な議論であったとは思うが,しかし,自然収奪の基本的構造を俎上に載せていないので,基本的に釈義論の枠内に留まっている.〉(中川)
神―人間(仲介者)―自然(ヒツジ化)という構図において、仲介者である人間が、より「神」に近い地位に置かれようと(人間中心主義)、「自然」に近い地位に置かれようと、「自然」を、捕獲し,馴致し,増殖し,最終的に消尽すべき資源としてのみ扱っている(=ヒツジ化)限り、事態は本質的には変わらないというのが中川の主張したい事柄であろう。
〈 《ヒツジ》とは,消尽の対象となっている自然である.人間が牧夫から《仲介者》へと立ち位置を変えても,資源として消尽される《ヒツジ》の状況は変わらない.《ヒツジ》化は,不変のままである.《ヒツジ》化こそ,環境破壊そのものだったとすれば,文明の起源としての《ヒツジ》化そのものを克服し,廃棄することを目指さないような環境論議は無効ではないかと考える.〉(中川)
キリスト教型であれ、ユダヤ・イスラム教型であれ、また、聖書をスチュワードシップ論的に解釈しようとしまいと、自然の《ヒツジ》化という態度は、いずれにも共通である。《ヒツジ》化とは、すなわち、自然の資産・資源化である。
もちろん、人間は、自然を資源として扱うことを全くやめてしまえば、生存することすら不可能であろう。おそらく問題は、その一面からしか、自然を扱おうとしないことにある。この態度に欠落しているのは、自然の本源性の理解ではないだろうか。キリスト教の創世神話は、人間を自然からの派生物ととらえる考え方とは両立しない。
その点で、自然を資産・資源として利用しつくそうとする近代的な――すなわち資本主義的なーー生産・生活様式と見事に適合する思想なのである。本当の問題は、宗教や思想そのものではなく、その根拠にある我々の社会的な在り方なのである。

