「大衆消費社会」の成立 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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「消費社会」は、現代経済の発展に伴って質的な「進化」を遂げたといわれている。次は、この「進化」の内容を確認しておこう。

まず、単なる「消費社会」と対比した場合の「大衆消費社会」の特徴を見てみよう。単なる「消費社会」は、生産と消費の分離によって生活財の大部分を商品として購入する消費者が登場することを以って始まった。これに対し、「大衆消費社会」は、生産システムにおける大量生産の導入、消費システムにおける標準化された大量消費の実現を柱に成立する。大量生産は、部品の規格化により互換性部品からなる標準化された製品を設計することによって実現された。

かつての小経営の下での注文生産では、製品の使用価値は、特定の顧客の個別具体的な要請にほぼぴったりマッチしたものであり、「消費社会」生成期のマニュファクチュア時代にも、なお、そのなごりがあったが、大量生産における製品の標準化よって、製品の使用価値は、消費者のさまざまに違っている個別的な要請の社会的平均値に対応するもの、個々の消費者の個別具体的な要請にぴったり当てはまるものではないがそう大きく外れてもいないものへと変化したのである。また、こうした規格化政策が市場経済の発展を促すものとなるためには、フォーディズムの場合のように、大衆の中に規格品を吸収できるだけの資力と規模をもった購買層を育て上げる方策も同時にとられる必要があった[i]

同じことを消費者の側からみれば、個人的嗜好の細部に拘泥しない限りは、それまでは容易に入手することのできなかった物財が、大量生産によって低廉化した既製品として入手可能になったことを意味する。このことは、一面では、これまで極上層の消費階層にだけ許されていた「消費による自己確証」に一般的大衆が参入できるようになったことを意味している。

いまや贅沢品となった注文生産品によって個人的嗜好を完全に満足させるだけの経済的ゆとりのない、中位、低位の所得層に属する消費者は、個人的嗜好の細部にわたるまで充足させることを断念して既製品の購入で満足するという妥協的態度を示すようになる。消費社会の多数を占める中位・低位の所得層に属する人々が標準的な規格品を生活諸手段としてその生活を展開することになれば、当然、生活水準や生活様式も標準化していくことになる。いわゆる「スタンダード・パッケージ」の形成である。 

このような消費の大衆化は、単純な平等化ではない。経済階層分割は単純化され段階数は減り各層を隔絶する障壁を非常に低いものとなり相互の流出入がおきやすくなる。中の下に属する「大衆」は、「中流」の地位を維持すること、さらに願わくばさらに上の層に上昇することを強く期待するようになる。すなわちキャッチアップマインド、ステップアップマインドの形成である。
 
こうして、生産システムの変革は、消費者の嗜好にまで影響を及ぼし、消費内容の「画一化」の傾向を創り出すのである。かくして大量生産-大量消費のシステムが成立し,消費市場の爆発的拡大が実現したのである。

ここで注意すべきは、こうした消費の画一化・標準化が、操作型マーケティングのような生産者側からの刺激や誘導を受けながらも、同時に消費者自身の選択を通じて、実現してきたということである。

消費者の選択の自由が保障されている市場経済の下で、各生産者は自社製品の売上を伸ばすために、消費者をさまざまな刺激によって誘導し自社製品を選択するように「操作」する。いわゆる「操作型マーケティング」の手法である。この場合の「操作」は、この語の持つイメージとは違って、消費者が持っていなかったニーズを生産者が一方的に創造して押し付けるということではない。生産者といえでも消費者の間に潜在的にも存在していなかったニーズをまったく新規に創出することなどほとんど不可能なのである[ii]。間々田孝夫氏は、この点について「企業は一方的な働きかけをするのではなく、『消費者志向的』であり、『消費者に従う』という立場に立っている」[iii]と述べている。

しかし、間々田氏のこのような整理は、逆方向への一面化に陥っているといわざるを得ない。確かに、生産者はもともと消費者の間に潜在していたニーズを探し当てて開発することが出来るだけなのであるが、潜在しているさまざまなニーズのうちどれに対応した製品を作るかは、基本的に生産者の側が決めるからである。ある使用価値で充足することのできる欲求(ニーズ)が消費者の間に広範に存在することがわかったとしても、生産者側にこの使用価値を製品化する能力(技術的・経済的条件)がなければ、この欲求は実現されない。

むしろ生産者は自己の製品化能力を用いてもっとも効率的に利潤が実現できるように製品化戦略を立てるのであり、存在するさまざまなニーズの中でどのようなものがどういう順番でどの程度まで充足されていくかということの大枠は依然として生産者側の事情に依存しているのである。消費者は最終的な選択権を握っているとはいえ、選択肢は上のような事情によって制約されており、この大枠の中での決定権でしかない。ただ、念のために、繰り返せば、このような事情は、生産者が意のままに消費者を操ることができるということを意味するものではない。生産者側の事情が大枠を決めるということは、生産者自身これらの事情に制約されているということを意味しているのである。まさに、資本という物象が、労働者、資本家、消費者等々すべての人間を支配するものとして君臨しているのである*。

*ただし、資本自身が、資本の墓穴を掘る人々を生まずにはいないという事実も忘れてはならない。


[i]成瀬龍夫『生活様式の経済理論』御茶ノ水書房、54頁~55頁。
[ii]間々田孝夫『消費社会論』有斐閣、2000年、7275ページ。