全体主義(全体論)とディープ・エコロジー | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

《全体論(holism)とは、「全体が部分より重要だとする考えである。全体論は各部分の関係を研究すること」を意味する。
近代科学は個々の部分を研究し、各部分を理解する。対照的に、全体論は「全体」が個々の部分よりも重要であると確信する。自然界はあくまでも全体として理解されなければならない。》(古田雅雄「現代政治イデオロギー序説」『奈良法学会雑誌』第24巻[2012年3月])
 
《 「自然主義」は、人間存在や人間社会に対する自然の包括的特性を強調し、自然のうちに自然と社会の関係の包括的統一をみる立場として把握される。この立場に分類されるものとしては、アリストテレスによる「ピュシス」の概念、マルサスやH.スペンサーによる社会現象における生物学的原理の強調、今日の「ディープ・エコロジー」に典型的に見られるエコ・セントリズムなどが挙げられる。》(岩熊典乃‟フランクフルト学派第一世代と「自然に対する社会的諸関係」論”2015経済社会学会大会要旨集
 
ディープ・エコロジーという思想のそもそもの提唱者であったアルネ・ネス自身は、「すべての生命」を「あらゆる生物個体」として考えている。だから彼は、個別の生物が他の生物によって生存を脅かされたときは、自分が生き延びるために、自分の生存を脅かす他の生物を殺すことも許されると述べている。どの個別生命体も等しい価値――存在意義・存在理由—を持つが、二つの個別生命体の同時生存が不可能になった場合、どちらにも自分を守るために他方を犠牲にする権利を認めるという立場である。これは、個体が生き延びるためであれば、生態系の別の部分を傷つけてもやむを得ないという考え方であり、《「全体」が個々の部分よりも重要である》とする「全体論」とは全く違った考えである。

したがってネス本人のディープ・エコロジーを全体論とすることはできないのである。

しかし、ネスの思想をどう理解するかという問題とは別に、少なくも当人の自覚においては、ネスの影響を受けっている、ネスの見解引き継いでいると思っている人々の間で、ディープ・エコロジーという名称のもとで、全体論的な環境思想が展開されていることもまた事実である。つまり、ディープ・エコロジーという思想自体が、ネス自身によって提唱されたオリジナルものと、全体論的に解釈(誤読?)されたものとに分裂してしまったのである。

どんなに頑張ったところで考えるときに使うことができるのは自分の脳みそだけである。その意味では、人間は必然的に自己中心的である。問題はその視野をどれだけ広げるべきかということでしかない。

したがって、絶対的な「生態系中心主義」は、少なくとも現時点では、結果的には欺瞞に堕するほかはない。全生態系の望ましい在り方を我々はまだ知らないからである。

ネスの大文字の「自我」"Self"やヘイゼル・ヘンダーソンの「地球市民」・「宇宙市民」ように、われわれの「自我」や「自己」の範囲を拡大しすることで、自分を中心としつつも、視野を広げ尊重し、配慮すべき対象を広げていくことが、当面可能な努力でろう。

このことは、対象の固有の本質に即して振舞うことを生物学的な必然性として負わされている我々人類の宿命なのかもしれない。