【〈商品語〉版】現実的抽象とは何か--欲求の多様化と貨幣-- | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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〈商品語〉と〈人間語〉の差異を理解していなかった時期に書いた記事を両者の差異を踏まえて書き直してみた。


思い付きをとりあえず書き留めます。
 
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商品交換過程での現実的抽象とは、商品の使用価値を、商品自身が自ら度外視、ネグレクトして、等価形態にある他商品との同等性(=価値)として自己を提示することに他ならない。それは、単純な交換関係という商品交換の原基的形態から始まって、必然的に、全面的商品交換すなわち貨幣に媒介された交換へと発展する。
 
既に単純な交換関係の段階において、商品たちは、相互に相手を、自分にとっての等価形態として指示しあう。この時、自分の使用価値は、当該商品自身にとってもはや直接に重要なものではない。そして、この使用価値は、最終的には、まさに他人に譲渡(alienate=疎外)されてしまうのである。どの商品もただそうすることによってのみ、自分を他商品との同等性(=価値)として実証できるのである。
 
Comor批判のエントリーで述べたように、この関係行為の帰結の少なくともその一面は、この生産物を産んだ〈労働過程における、人間と自然との物質代謝&人間相互の協業関係〉それ自体を隠蔽することにならざるをない。
 
労働過程が、その特殊歴史的形態において、如何に私的、排他的、孤立的に営まれようともそれは上記の意味において社会的なものである。また、それは資本主義的生産様式の発展とともに、ますます社会的になる。
 
しかし、商品交換は、既に、単純な交換において使用価値の実践的な捨象、労働生産物の現実的な抽象化である。そして、私的生産が真に発展してほとんどすべての生産物が交換目的で生産される段階に至れば、この抽象化はより深刻なものとなる。生産は、別の使用価値を入手する手段でさえなくなり、交換価値をより大きな交換価値に置き換える無限の運動に転化する。
 
人間の欲求は、表面的な多様性にもかかわらず、実質的には単一の対象への単色(黄金色!)の欲求へと一元化されるのであって、もはやそこには、自由な欲求や欲求の多様性を見出すことはできないとさえ思えるのである。


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