摘要とコメント:田中宏「『影の労働システム』はどのように作動していたのか」 | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

*松山大学論集 第24巻 第4-3号 所収
 
なんというか…、そこまでして「ソ連は、社会主義だった」という自分の幻想にしがみつきたいのかと、読んでいて書いた本人が哀れにさえ思えてくるクソ論文です。

《拙稿「『ソ連型』経済社会と体制転換の20年に関する省察」 (田中宏2011)で,崩壊した「ソ連型」経済社会を20年後の時点に立ってどのように理解するのか,について次のように語った。つまり,「ソ連型」経済社会は単色のシステム的特徴として押さえきれない,多様化した複合的社会であった。しかし,そのなかで「ソ連型」経済社会の諸モーメントの底辺に位置する労働現場での労働者による「日々の権力」がポイントとなる。国家的所有や計画経済制度,一党制という指標は重要だが,それだけではなく,労働者に よる「日々の権力」が社会主義的特徴を付与する磁気作用となっていた。》

いきなり逃げ口上ですね。《「ソ連型」経済社会は単色のシステム的特徴として押さえきれない,多様化した複合的社会であった》とか、不可知論の表白としか受け取りようがありませんね。現実の社会構成体はどれもこれも「複合的な社会」ですよ。そのシステム的な特徴を捉えるために、〈経済学批判〉の諸概念があるのです。
 
さて、《「ソ連型」経済社会の諸モーメントの底辺に位置する労働現場での労働者による「日々の権力」》とは何でしょう。気になるところですが、その前に、その先に書かれていることを片付けましょう。
 
《国家的所有や計画経済制度,一党制という指標は重要だが》という場合の指標が何の指標なのか、ここでは明記されていませんが、もちろん、田中氏の頭の中では、「社会主義」の指標なのです。本来ならこれですべておしまいです。こんなレベルなら、本当はわざわざ取り上げるまでもないのです。ここに挙げられている3つの指標はどこから来たのかといえば、自称「社会主義」諸国が現実に備えている特徴なわけです。田中氏は、自称「社会主義」国を「社会主義である」と前提してそこから特徴を取り出し、「指標」としているのです。それらの「指標」が自称「社会主義」諸国に当てはまるかどうか、といえば当てはまるに決まっています。これは研究といえる代物ではありません。
 
カレーライスもハヤシライスも知らない人が、最初に入った店で店主に担がれて、カレーライスを「ハヤシライスですよ」と食わされて、種々のスパイスが入っている、辛い、などの指標を「ハヤシライス」の指標として取り出し、その後どこでカレーライスを食べても、「これは、ハヤシライスだ」と主張しているようなものです。
 
しかし、田中氏は、これでもこの分野では一応定評のある研究者なので、もはや世も末です。
 
では、例の「日々の権力」の問題に戻りましょう。補文の順序とちょっと違ってきますが、「日々の権力」(本論文では、のちに紹介する事情のため「影の労働システム」と改名)中身について、先回りして確認しておきます。
 
《ところで,「日々の権力」everyday power(田中宏 2005;235- 237)とは何か。 これは,ハンガリー研究者ヤーノシュ・クルーの研究に基づきながら,生産過程の不確実性と無規律状態の結果,経営者による労働過程の直接間接の統制・モニタリングが不可能になり,生産過程の組織化の機能は経営者から現場の労働者の手にシフトした状態を指す。》
 
生産過程を組織化するという機能の担い手が現場の労働者になるなら、それは社会主義だ、とこういうわけですね。ほんとうでしょうかね。決定的なのは、誰がではなく、どのようにではないのでしょうか、現場労働者が組織化の担い手になっても、生産過程が資本の自己増殖過程として組織化されるなら、それは資本主義的生産過程なのではないでしょうか。そのようなことは、例えば、各種協同組合の、内実における営利企業化の場合にも起こりうることでしょう。
 
田中氏はまた、石井聡氏の論文に依拠して次のように述べます。
 
《生産計画には現場の労働者は参加することなく,また知らされることもなかった。そこで作業速度を決定していたのは経営者ではなく,従業員であった。労働規律の欠如は,不十分な作業配分と個人の責任原則の欠如にあった。専門能力の不足と資材不足,機械設備の停止時間の多さも規律を乱した。規律意識の有無に関係なく,自然と規律が乱れてしまう条件が存在していた。遅刻,時間前の無断退社,早退や労働時間中の買い物。賃金制度が100%以上のノルマ達成率を保障している。質や生産性向上の刺激にならない。》
 
労働者が生産計画には参与していなかったこと、彼らが統制していたのは、作業速度や労働時間管理、すなわち労働の抽象的側面であったこと、しかもその統制手法は、決定内容の不履行・逸脱というネガティヴなものであったことを確認していただきたいと思います。田中氏の言う現場労働者による「生産過程の組織化」の内実は、このようなものだということです。
 
《労働組合は共産党支配体制の歯車になったが,作業区gewertの課長meisterは生産現場の統括能力をもちえなかった。ここの指摘が重要である。その下の作業班brigadeの作業班長brigadierが生産の現場のノルマや利害を代表して,企業当局との交渉にあたっていた。またそれが余暇生活の単位になった。これが「親密圏」を形成していた。企業現場が中央の意図と反する状態にあることが日常的であった(p.255)》
 
支離滅裂です。生産過程を統制しようとする支配者に対して現場の労働者の抵抗があったから、社会主義だったのだというのです。しかし、僕らは、ついさっき「国家的所有や計画経済制度,一党制という指標は重要だ」と聞かされたばかりではないでしょうか。“国家や党による統制も社会主義の指標としては重要だが、それに反抗する現場労働者の自律もまた社会主義の重要な指標なのだ”ということのようですが、もはや論理の一貫性すらかなぐり捨ててしまったということなのでしょうか。
 
《このように理解すると,資本主義国の独占段階における経営者革命,専門的経営者の出現と労働過程の科学的管理法の導入=労働過程の実質的支配の前進とは全く別の現象が「ソ連型」システムの中で発生していたことになる。同じような機械制工業,重化学工業の導入にもかかわらずそれは発生した。これを資本主義確立以前の「職長帝国」下の「職工の組織的怠業」文化の残存として理解することは一部に妥当するが,歴史的にみて特殊な工場制度のなかに組み込まれた,そのシステム的表現性を見ない点で,不十分であろう。》
 
《資本主義確立以前の「職長帝国」下の「職工の組織的怠業」文化の残存》というのは、田中氏に対して藤岡惇氏から寄せられた批判です。藤岡氏の文章に直接あたっていませんので確言はできませんが、藤岡氏も「文化」という言葉を使っていても、この「文化」をシステム的な基礎を持つものと捉えていると思われます。田中氏が言う労働者による「日々の権力」とか、現場労働者の生産過程を組織化する機能とかの内容から見て、藤岡氏の批判は、かなり的確なものであるように思えます。
 
外挿的に大工業を移植しても社会システムの総体としては、マニュファクチュア段階と類似の側面を持っていたということでしょう。マルクスはマニュファクチュアの限界の一つして,労働力調達の制約性(職人的労働者の要請には時間がかかり労働力供給は制限されざるを終えず、そのことが現場労働者の自律性につながった)を挙げていますが、いわゆる「現存社会主義」国も慢性的な労働力不足が指摘されており、この点が、現場労働者が当局の統制から逸脱する余地を生み出していたものと思われます。
 
それにしても言い訳や開き直りの多い書き物(○○をつけてでも「論文」などとは呼びたくなくなりました)ですね。
 
《最後に残されたのは,これまで明らかにしてきた,「影の労働システム」に代表される[国家・中央計画当局→国営企業管理層]⇒(←)〈労働者〉の関 係総体をどのようなタームで表現することがより適切かの判断である。…中略…本稿では,[国家・中央計画当局→国営企業管理層]⇒の指揮権の流れの側面を表象するものとして国家,そして (←)〈労働者〉を表現するものとして社会主義を使用することを提案している。後者はマルクス的な理念像からの乖離を承知している。》
*「←」は労働者側からの「日々の権力」改め「影の労働システム」を意味しています。
 
マルクスと違い、田中宏氏においては、他者の支配する労働過程で現場の労働者が試みるネガティブな反抗――生産計画には手を触れない――が「社会主義」であり、労働者による「生産過程の組織化」なのだそうですOΓZ≡3






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