個別資本家が、安んじて労働者の本能に労働力の再生産を委ねることができるようにするための装置として、近代家族が構造的に維持されている。他方、「家庭責任」は、労働力の商品価値にケチをつけ値切るための口実としても利用されている。
さらに、セクシャリティーの家族化、私化は、労働過程の非ジェンダー化、事実上の非女性化を促進する。これは、杉浦浩美の言う「労働する身体」と「産む身体」が、一人の人間の同一の身体であるにもかかわらず強制的に分離されていく過程だといえるだろう。そして、この過程の悪影響を受けるのは、一人女性労働者だけではない。男性労働者もまた「労働する身体」、いや「労働〈だ〉〈け〉する身体」へと自分を暴力的に抽象化することを強制されるのである。
工業化のごく初期段階までは、家族関係そのものが工場内に持ち込まれていた。ぐるみ雇用である。いや、それは〈家族〉と言えるほど、形の整ったものではなかったかもしれない。しかし、いずれにしても近代家族の要素となる両性カップルとその子という関係が工場内に持ち込まれていた。そして、街頭にもセクシャリティーがあふれていた。
ビクトリアン・コンプロマイズは、この情況を再編し、未婚女性に「労働する身体」を、既婚女性に「産む身体」をと言うように、二つの身体性を女性のライフ・ステージに応じて割り当てると同時に、若年未婚の女子労働力を縁辺労働力に、成人男性労働力を中核労働力に位置づけ、労働市場の分断化を図り、さらに男性ブレッドウイナー・モデルを理想形とする近代家族を作り出した。この過程に並行して、資本の勢力による近代家族を通じての生殖管理にとってノイズとなる公然かつ自由な非生殖的性交渉は、国家の間接的管理下に置かれるようになっていった。
しかし、資本蓄積の進展は、労働市場の一層の拡大を要請し、既婚女性の労働者化は避けられないものとなる。例えば、労働基準法の一般的な女性保護規定が、「平等な」競争――資本への労務提供競争――のために廃止されたように、あるいは、同じく労働基準法の母性保護規定の軽易業務転換権や育児休業法が、殆ど画餅となりかけているばかりか、後者は解雇の手段とされる場合すらある(休暇を認めたうえで休暇中に解雇を申し渡す)というように、女性の身体を労働する身体へと一面化する傾向が強まる。
そして、既婚女性の労働者化 (労働する身体化)は、私化された再生産労働の維持を困難にする。労働力の直接的再生産に必要な諸労働の内、外注化可能な部分は、次に三つの形態のいずれか、またはその組み合わせによって、社会化されなければならない。すなわち、市場化、協同化、公務労働化である。これがなければ、女性たちは、いわゆる「家庭責任」と賃労働の二重負担を担いきれず、近代家族は崩壊するだろう。
企業の外にはじき出され、私化された再生産労働から、さらに外注化可能な部分が分離され、市場化、公務労働化、協同化されていく。既婚女性労働者には「生む身体」が残されるが、それは依然として企業の外に押し出されている。
もしも、再生産労働やセクシャリティー一般が完全に商品化すると、近代家族の維持は困難になる。だから、それを抑制するか、もしくは、資本の勢力による新たな管理体制に組み入れる必要がある。女性が公務労働に集中するスウェーデン・モデルは後者の例だろう。また、協同化は、労働する諸個人による再生産過程の自律的調整につながりかねないので、資本の勢力は、これに対しても抑制を図るか、公務や市場における営利事業としての再生産労働の下請け機関化を図ることになる(例えば、介護保険による福祉の準市場化)。
資本に対抗する我々の、究極的目標は、労働過程の再ジェンダー化である。ここで、労働過程再ジェンダー化というのは、労働する諸個人の多様なジェンダー・アイデンティティーの維持・涵養が可能となるような労働過程の実現のことである。再生産労働の自主的協同化は、それが唯一の経路ではないし、迂回的な経路でもあるが、とにかくこの目標への接近の経路の一つではあるだろう。

