ハイエクへの応答:完全知識不要の社会主義(後編) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

 
Economy and Society Volume 32 Number 2 May 2003: 184-206
Socialism, associations and
the market
John O'Neill


 
☆最後に、知識と社会生活における予見可能性の限界についてハイエクに同意する中で、ノイラートは、合理的な検討によっては完全には正当化できない行動のルールが存在するであろうことも認めている:「私は、コミュニティでの生活が、その帰結を厳密な方法によっては解明できないような、[しかし]広く受容されているルールに基礎を置くものであることを全面的に受け入れる」(Neurath 1945a)。
 
ノイラートの立場は、ハイエクが主張するのとは逆に、人間の知識と理性の限界についてのハイエクの前提の多くを共有するものである。この点は、より一般的な重要性を持っている。ノイラートはここで、中央集権的でテクノクラティックな計画に反対するハイエクの認識論的議論とそうした計画に対する多くの社会主義的批判によって提供される議論との幾つかの共通基盤を強調している。それは、ハイエクが多くの社会主義理論家によってこうした共感をもって受け入れられた理由である(O’Neill 1998:10)。
 
☆ハイエクの立場の中でノイラートが明白に拒否したのは、こうした認識論上の問題の解決には市場経済が不可欠であるという想定である。彼の返信のある部分は、この問題は、現実の経済においては、非市場領域を含むあらゆる社会的意思決定に広がっているので、市場に解決を求めることはできないと指摘している。
 
予見の不可能と完全知識の不在という条件下での社会的意思決定の問題は、現在の経済においては、非市場領域にまで浸透している社会生活上の事実である。それ故、ノイラートは、ハイエクの主張に対する応答として同様の知識問題は工場の内部でも起こりうると書き残している:
 
ハイエク教授は、人々が社会を一つの工場だと度を過ぎて思い込んでいるのだと考えているが、それでは、まるで[教授自身が]工場でなら我々がもっとうまく予測できると考えているようではないか。私は、工場においても我々は、教授が考えているほど包括的には予測などできないということを強調したい。私は、ハイエク教授をもっとハイエク的なものにしなければならない。我々は工場においても包括的予測をなし得る立場にはないのだ。(Neurath 1949a
 
☆不確実性という条件下での社会的意思決定の問題は、社会生活の一般的な属性である。しかしながら、このような認識論的問題を提起するということは、社会主義が[直接]解決を提起でき[るわけでは]ない問題を提起するということである。
 
不確実性と予見不可能性の存在を除去できないこと、単一の計画期間に知識を手中できるという幻想は拒否されるべきであること、これらを前提して、どのような形態の社会主義組織が採用できるだろうか?特に諸個人、諸集団が彼らの特殊的知識を活用することを可能にしながら、彼らの活動の間に調和を保つような、生産と分パイの組織の非市場的様式が存在するのだろうか?
 
ノイラートは理論上だけではなく、一連の実践的な社会的な実験においてもアソシエーション社会主義というモデルでこの問題に応えた。
 
[この節終わり。次節は「市場抜きのアソシエーション:理論と実践」]