コメント編:完全知識を必要としない社会主義(前編) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

【コメント】
何らかのニュメレールを用いて、それの投入/産出を計算し効率的配分の指標にしようという発想自体が、現実の社会における生きた経済活動を極度に一面化してとらえることになるというのが、ノイラートのここでの主張の眼目でしょう。オニールが「政治的・倫理的判断」と呼んでいるもの(ノイラート自身の例示では、一定の技術的条件の下で将来世代のことをどこまで配慮するか)が、ノイラートにとっては、不完全知識の事例であったわけです。彼は、経済計画は、こうした「政治的・倫理的判断」(不完全知識の下での意思決定)を排除できず、仮に、技術的側面だけでなら完全情報が得られたとしても、それだけでは計画の運営はできないと考えていたわけです。ハイエクにはそう思えなかったようですが、やはり、オニールの言うように、完全知識の収集可能性を前提とした計画経済論への批判という点では、ノイラートは、ハイエクと同じ側に立っていると思います。
 
また、ノイラートのこの議論は、市場の抽象化暴力を批判してきた我々の立場からも、一定評価できる面があると思います。何らかのニュメレールを用いて、それの投入/産出を計算し効率的配分の指標にしようという発想自体は、新古典派的市場観=「自己調整的市場」(©Polanyi)に対する幻想にも共通するものだからです。
 
ハイエク自身は、“計画経済など、不完全情報に過ぎないものを、あたかも完全情報のように取り扱う誤りである”という彼自身の計画経済批判が、“市場においても完全情報は存在しないではないか”という新古典派的市場観への批判にもなりうることに当然気づいているはずですが、なぜか、ノイラートとのやり取りでは、この両者の一致点に無頓着です。この点では、ノイラートの方に優位性を認めることができます。ただし、これまでのところの印象ですが、彼の表現は曖昧であり、その内容も、『資本論』などのそれなりに整備された抽象化批判には及びません。
 
マルクス自身は、計画経済論をそれほど詳しくは、展開してはいないわけで、ノイラートに独自の貢献を求めるとすれば、そちらの側面となりそうです。