テイラーとマルクス,または,チャールズとカール | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

[2012/1/12(木) 午後 0:23 表題変更、本文一部修正の上再投稿]
 
科学的管理法で知れれるフレデリック・テイラーではなくて,カナダのコミュニタリアン,チャールズ・テイラーの話です。この人は,あのサンデル先生の先生です。
 
テイラーは、自分の思想を全体論的個人主義と位置づけているそうで、存在論は全体論、政治哲学・倫理においては個人主義とのこと。そしれテーラーは、マルクスを全体論的集団主義と捉えているそうです。
 
しかし、実際のところマルクスは極めて個人主義的です。ある一面を見ればテイラー以上に個人主義的です。「平等」と「権利」についてマルクスは、究極的には「権利は不平等でなければならない」と言い切っています。人それぞれに異なる権利が割り当てられるべきだと。そうでなければ、人間の本当の自由、権利の十全な実現には至らないと。
 
つまり『ゴータ綱領批判』において、概略次のように述べているのです。
 
―共産主義のより低い段階で採用せざるを得ない平等の尺度による労働の測定と測定された労働量による生活手段の分配は、身体能力の差異(支出できる労働量の差異)や家族構成(家族全体が必要とする生活手段の量の差異)によって不平等の発生と再生産に帰着する。生産力が低い段階では、この不平等は甘受せざるをえないが、より高い段階では撤廃されるべきである。そこでは、各自が能力に応じて働き必要に応じて受け取るので、労働能力の多様性と生活の必要の多様性は切断され、それは全てそのまま尊重される(別のところでは、これをある人のある欲求を制限できるものは、その人自身の他の欲求だけである、と説明しています)。―
 
これは、リバタリアンが理想とする究極の自由社会とほとんど同じものです。
 
僕が驚いたのは、まさにこの点です。テイラーは彼自身、イギリス留学中から左翼運動に参加し、ニュー・レフトの旗手として注目され、イギリスへの『経済学・哲学草稿』の紹介者でもあったといいます(中野剛充『テイラーのコミュニタリアニズム』)
 
それにもかかわらず、テイラーは、マルクスをその政治哲学・倫理学において集団主義であると見ている、僕から見れば誤解している,ここが不思議です。
 
しかもマルクスは、近代啓蒙思想が前提とする自立的個人は、近代社会の産物であって、啓蒙思想のようにこれをはじめから存在するものと見て彼らが社会に先行し、彼らが集って社会を構成すると考えるの虚構・フィクションだと喝破しています。
 
これはまったくテイラーが自分自身についていっている存在論における全体論と同じように思えます。社会的なものがまずあってそこから個人の自立性・自律性が派生するという理解です。
 
このようにテイラーとマルクスは非常に近いにもかかわらず、テイラーがその点に気づいていないらしいところが非常に不思議なのです。