事実と理論(覚書) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

我々はみな、認識・判断の根拠には、しっかりとした実在感のある現実がなければならないと言うことは認めている。しかし、我々はそこから議論を素朴に延長して、「自分の主張が、経験的事実に支えられていさえすれば、それは科学的主張である」と、思いこんでしまっているふしがある。この素朴な誤解は、科学性への正確な理解へたどり着く道をふさぐ、つまずきの石ではなかろうか。
科学性というのは、単に主張の現実的な根拠を明示すればことたれりというようなものでは決してない。 考えてみても欲しい。単に主張を論理的に支えうる事実を提示しさえすればよいというのなら、我々には正反対の主張を補佐するような事実を、いくらでも、同時に提示することが可能である。
(保木本 利 行「社会科学における分析視座の整理にかかわる一試論」山形大学紀要(農学)第16巻 第2号Feb. 2011)
 
 
「理論(概念)が事実を批判する」…理論(概念)も事実もともに実在的なものである。しかし,事実は,実在的であるといっても,実在世界から意識によって切り取られた任意の断片にすぎないのに対して、概念の方は、自己自身を措定し再生産する主体として自立性を確立した存在なのである。
 
概念の一時的な存在形態や部分的な契機が,限度を超えて延長されたり固定化されたりするとき,概念は「抽象概念」へと転化し,個別の「事情」との敵対的な関係に陥る。
 
自然科学における実験も,「事実」を「理論(概念)」に当てはめる作業に他ならない,「事実」が持つ「概念」からのズレを批判して矯正し,「事実」を「概念」に添う物へと批判的に変革することに他ならない。
 
帰納的な手続きによる「法則」抽出こそ,「法則主義」の根源である。