草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



 ちょうど1年前,赤旗の正月特集であろう志位氏と民青同盟代表との対談記事にたいして次のような感想がポストされた。

『日曜版』お正月号の巻頭はかずおと民青の未来社会についての対談だけど、自由時間の短縮[ママ。多分「自由時間の拡大」か「労働時間の短縮」の間違い]による『必然性の国』から『真の自由の国』を論じるなど到底、科学的社会主義の政党とは思えないサイエンス・フィクション(S F)社会主義が全開だなぁ〜

 いかは,それにたいして僕が行った返信ポストです(複数回に分けてポストした文章を一本化し必要に応じて加筆修正)。

 ………

 日本共産党本体は、紛れもなく空想的社会主義に他なりませんが、マルクスの「自由の領域」論が空想とは聞き捨てなりません(和良和良。生産力向上とそれによる余暇時間の拡大の相乗効果は、現実問題としても重要です。80年代――日帝にも余力のあった時代には、ブルジョア企業ですら取組んでましたよ。  

 問題は物質的窮迫性の克服を如何にして実現するかです。この点の曖昧さが空想性に繋がるのです。労働生産力向上が必要条件であることは、恐らく共通了解でしょう。又、諸力を向上させる手段や方法も、ここでの直接的な論点でないこともご理解頂けると思います。

 労働生産力の向上それ自体は、剰余価値取得と自己増殖の手段として資本自身が常に貪欲に追求しているからです。しかし、そうであるからこそ、この向上の成果は、自由時間の拡大ではなく、剰余労働時間の拡大となって現れます。これを如何にして自由時間に転化させるかが曖昧であれば、この議論が空想的なものになってしまうのではないでしょうか。マルクス自身は、この点についてこの箇所では直接詳細を語っていません。しかし、末尾で「労働日の短縮こそは根本条件である」と指摘しています。僕らは、この一句を見て直ちに『資本論』第1部第八章の後半の三つの節を想起すべきなのです。労働時間短縮のための闘争が、まず直接的にそれ自体が剰余労働時間を自由時間に転化させることそのもの(①)であり、同時に資本に生産力の更なる向上を促迫(②)し、加えて、向上した生産諸力の制御が資本の体制下では不可能であることを実証(③)することによって、自然とのあいだの質料変換を合理的に規制する必要性を社会的に開示します。この3点において、現下の労働者階級の闘争が真の自由な領域の実現と結びついているのです。このつながりを切断してマルクスの「自由の領域」論を遠い未来の話としてのみ扱うなら、空想的だといわれても仕方がないでしょう。

  最後に、もう一点。労働者の闘争が「同時に資本に生産力の更なる向上を促迫」するといっても、資本主義の下では、どのような労働生産力を各々どこまで向上させるかという社会的分業の総体編成の在り方までは、労働者は勿論、資本家階級も制御できません。 個別資本が各々勝手に自己増殖に有利と判断した生産力を発展させるからです。エッセンシャル・ワークやその担い手を支える技術や産業、環境の保全や修復に役立つ技術や産業よりも、ブルシットジョブや環境破壊的な技術や産業が発達しがちなのは、そのためです。この状況からの脱却(=質料変換の合理的制の追求)も、権力獲得後に初めて着手できる課題と捉えるのは誤りです。資本の支配のもとでも資本の運動を部分的漸進的に規制することは可能であり、この規制力の発達がほかならぬ権力獲得の条件の一つだからです。資本に対する規制力を行政権力のみに限定する狭い見方から脱却する必要があります。率直に言って日本共産党においては、そうした狭い見方が優勢であると見受けられます。行政権力よりは、労働運動や産業協同組合運動の規制力の方が、資本に対する規制と社会化された人間、結合された生産者たちによる質料変換の合理的規制の実現とを結びつける環としてはるかに重要です。これを言うと、反発する人が多いかもしれませんが、ミキサー車ドライバーの組合が生コン業界を協同組合に組織化したかの運動は、この点から見て、画期的なものだったのです。それを世間の偏見に屈服して票が逃げそうだからと切り捨ててしまったことは大きな過ちだったと思います。

 

 
莽崛起(The Rising Multitude )

 榎本とかいう読解力に乏しいおっちょこちょいが,調子に乗って有井行夫を批判しているつもりになっている。大いに笑える滑稽なものなので紹介する。

 

《〔『帝国主義論』の〕理解上の困難の本体は,じつは,『その経済的本質からすれば帝国主義は独占資本主義である』というさいの『独占』概念の二義性にある.一方では,あきらかに,独占は資本主義一般の構造性否定形態,社会主義-の『過渡』形態として把捉されていながら,他方では,資本主義の新たな発展段階の構造たる『資本主義の独占段階』を編成している構造『原理』として位置づけられているようにみえる. 『帝国主義諭』を誤読しないための要件は, 『独占』に付与されたこのふたつの資格が直接的には互いに矛盾するということの理解である》(以上は、榎本による 有井行夫 「独占資本主義における 『構造』と 『歴史』・付論」(駒沢大学 『経済学論集』18巻 4号,. 1987年 3月) からの引用)

 

(1)「二義性」とは言われても, 「独占」や「独占資本主義」等,独占資本主義に関わるカテゴリーの論理的抽象のレベルの区別という観点がなく,並列的対置となっていること,(2)したがって,同じ論理レベルでの「矛盾」関係とされていること,(3)「独占」と「資本主義一般」が一般と特殊の関係ではなく,排他的関係として捉えられていること,したがって「独占」が「資本主義一般の構造性否定形態」として,つまり事実上「社会主義」と重ねあわせて捉えられてい》[る]

(こちらは、標記の榎本論文)

 榎本は、すっかり勘違いしているが、「独占」を「資本主義一般の構造性否定形態」として,しかも、「社会主義の前提」というポジティブな否定性とらえているのは、有井ではなくレーニンである。有井にとっては、「独占」それ自体が資本主義一般を否定する性格を持つわけではない。「独占」は否定性の現象形態に止まる。否定性があるということが「独占」を通じて証示されるのである。より正確に言えば、「独占」単体で否定性を証示しているわけではなく、「独占」と「競争」との振動的統一=振動的対立という矛盾こそが否定性を証示するのである。しかもそれは、「社会主義」の可能性というポジティブな否定性ではなく、資本主義の不安定性という意味でのネガティブな否定性である。もう一言いえば、この否定性の現れの抽象的レベルは、資本主義一般の構造性に属している。また、有井がここでいう「矛盾」については、この文脈でいわれているのは、資本主義の構造や運動における実在的な矛盾ではなく、レーニン『帝国主義論』の理論構造上の矛盾である。つまり、レーニンが「独占」概念に、一方では資本主義一般を超出する性格を認めながら、他方では、資本主義の新たな特殊形態を生み出す契機としての性格を認めるという理論上の矛盾である。

 榎本は、有井自身の見解と『帝国主義論』に示されたレーニンの見解についての有井の解釈が全く区別できていない。有井が心配している誤読の可能性について微塵も反省するところがなく、自分が誤読している可能性など絶対にないと独断しているからである。これでは、有井がせっかく「『帝国主義諭』を誤読しないための要件」を提示してもまさに「豚に真珠」ということになる。

 《いうまでもなくマルクスは,人間社会の本質諸力と人間社会に外的に作用する諸力とを論理的に区別している.そして,抽象的範疇としては,人間社会――諸個人のレベルでみようとも人間社会総体のレベルでみようとも「人間的な自然本質」を同一の実体範疇とするところの人間社会――と,それに作用する歴史的な経済法則―― 私有(商品,貨幣,), 資本一般(産業資本,)―― とを,相互に一分子も含みあわないものとして区別した上で,分析的方法に則って人間社会の発展を体系的に把握しようとしている.

 榎本は、全く何の権利も獲得しようともせずに、実に恣意的にマルクスを騙る「人間社会」と「歴史的な経済法則」は、「相互に一分子も含みあわない」だって?おいおい、榎本よ,それでは「歴史的な経済法則」とやらは、いったいどこからやってくるのだ?天から降ってくるのか?人間社会の外にある「歴史的な経済法則」が「それ[人間社会]に作用する」だって?歴史的諸範疇が人間社会の内部にないとすれば、それは、考察者の頭の中にあるほかはないだろう。これは、ヒルファーディングの忠実な準え、まさに「組み入れ」論である。


 

 
莽崛起(The Rising Multitude )

 機械の導入が必ず失業を生むわけではありません。

 機械には、就労を支援する効果もあります。何等かの身体的不自由のある人が機械の助けで就労できているというケースもあります。また、機械化によって重労働の一部がなくなった職場もあります(例えば、多くのパチンコ店で玉のぎっしり入った箱を人が腕力を使って運ぶことは必要なくなりつつあると聞きます)。

 また、機械導入による生産性向上も必然的に失業につながるわけではありません。例えば1000人の労働者が1日8時間働き1日に8万単位の生産物を生産している工場で、機械導入で生産性が倍増した場合を考えます。

 資本主義では、生産の目的は資本の自己増殖なので、最終的には可変資本Vに対して剰余価値Mが大きくなるという結果をもたらすような行動を資本は選択します。ただしv/Mの比率は直接的に意識されている目標ではなく、生産物の単価を下げて特別剰余価値を取得することが直接的に追及される目標です。8000人・時間÷8万=0.1人・時間のV+Mが生産物1単位に付加されている状態から、できる限りの増産をして1単位当たりのV+Mを8000人・時間÷16万=0.05人・時間に減らすことが追求されるでしょう。好景気などで売れ行きが伸びる状況では、事態はこのように進行します。売れ行き伸びが大きければ、人員を増やすこともあり得ます。

 問題は、景気が後退するなどして需要が縮小した場合です。縮小した需要に対応すべく、人員の整理が行われます。売れ行きが良かった時に倍増した生産力を用いて1000人・8時間で16万単位を生産していた状態から、需要縮小によって8万単位に生産量を減らす必要があるとしたら、資本は500人・8時間で8万単位の生産体制に移行するでしょう。

 しかし、剰余価値の私的取得による資本の自己増殖が生産の至上目的となっていない社の場合は、この限りではありません。生産量を減らす方法は、人員削減ばかりではないからです。人を減らす代わりに、労働日を短縮しても減産はできます。8000人×8時間で16万単位を8000人×4時間で8万単位にするという方法です。資本主義的な企業でも労働者がある程度の力を持っていて雇用の維持を要求した場合に、企業側が譲歩してそのような措置を取ることがあります。操業短縮といわれるものです。もっとも資本主義の場合には、操短が常に雇用の維持につながるわけではありません。人員整理と抱き合わせで行われることの方が資本主義の場合は多くなります。そうでないとVの大きさが今まで通りなのにMだけが目減りすることになり、資本にとっては極めて不利だからです。

 

莽崛起(The Rising Multitude)

グズネッツ曲線 

 

 横軸に一人当たりGDPを縦軸に環境悪化の水準を取ったもの。一般にGDPの増大が環境改善をもたらすことが示されていると解釈されがちである。しかし、むしろ全く逆のことを示しているとみた方が良いだろう。

 このグラフが示していることは、GDPの額の増減それ自体から環境悪化の水準の低下ないし上昇を直接導くことできない,つまり,GDPの額が増えてもそれだけでは,環境が悪くなるともよくなるとも言えはしないということ,逆についても同じだということだろう。

 つまり,「GDPを増やした方が環境はよくなるんだよ」などとは言えないということだ。こうした主張はグラフの右半分しか見ていない議論だし,逆に「GDPが増えれば環境問題は悪化する」というのもグラフの左半分だけを見て議論しているということになる。

 より重要な検討すべき問題は,このターニングポイントが一体何によってもたらされているのかということである。GDPの額として増大それ自体が要因ではありえないのは,明らかだろう。GDP額の増大は,ターニングポイントの手前でも通過後でも全く同じ要因として作用し続けているからである。

 GDPそのものについて言えば,額の大小ではなく,その内容的構成が問題になる。例えば,サービス経済への転換が進み,物質への依存度の少ない効用充足がより高いレベルで可能になっていくなら,GDPの増大と環境負荷軽減が並行的に進むことになる。また,ターニングポイントまでの環境悪化に対する対抗運動やそれを受けての行政の介入規制により環境改善が進むという要因も重要だ。

 さらには破壊の深刻化が,良好な環境の希少性を高め,環境改善のコストとそこから得られる効用との大小関係が逆転するという要因もあるだろう。

 このように環境クズネッツ曲線は,GDPの額的増大が環境改善を直接もたらすわけではないということを示しているのである。

 

莽崛起(The Rising Multitude)

 GDPは、国民総労働が価値として対象化され,それが貨幣額として再評価されたもの。それ自体はコストとしての労働がどれだけ投入されたか、言い換えれば,一年間に労働力がどれだけ支出・発揮されたかを示しているにすぎない。したがって,肝心なことはその結果としてどのような成果が生み出されているのかという,生産された財とサービスの質的な内訳(どんな使用価値や有用効果が生産されたか)および,さらにそれによってどれだけの資源・エネルギーが消費され,廃棄物が生み出されたかである。

 マルクスは,「人間的自然に適合的」な生産の実現と,その際に「力の最小の支出」でそれを行うことが,資本主義を脱出した後の社会の課題であるとしていた。人間的自然には肉体としての自然と環境としての自然が含まれる。よって「人間的自然に適合的」な生産とは,資源・エネルギーの消費や廃棄物の発生を抑制しながら,必要な使用価値と有用効果を生産することであり,「力の最小の支出」とは,左記の生産のための労働力支出をその時点,その時点で可能な限り小さくすることである。後者を追求することで,GDPの絶対的な規模が縮小するとは限らないが(実現を目指す生活水準や人口などにも依存するため),縮小も含めGDPの不必要な増大を抑制することになるのは明らかである。「力の最小の支出」の追求はGDPの増大を生活向上の絶対的条件であるかのように考える成長主義とは相容れないのである。 

 

以上の主張の特長的なポイントを以下にまとめる。

  1. 必要な範囲でのGDP増大を否定していない
  2. 労働力支出を最小にすることは生産性の向上を意味し、技術革新の役割を高く評価している
  3. 既存の経済システムと営利企業を廃止することは直接言及されていないが前提である
  4.   生活水準の維持や向上を前提に、労働力支出の増大を必要最小限に抑えるという主張

 

 

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