草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



https://ksu.repo.nii.ac.jp/record/10877/files/BIJCKSU_28_314.pdf

 



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そもそも、マルクスが資本主義社会の中にその萌芽を発見した共産主義社会は、国家なき社会です。官僚機構に変わってってネットワーク組織と流動的な分業(アドホクラシー)によって社会的活動の調整が行われる社会です。

これに対して、われわれが間違って「社会主義国家」、「共産主義国家」と呼んできた国々の経済体制は、正確には国家資本主義と呼ぶべきものです。

国家資本主義は、遅れて資本主義化(≒近代化)を開始した国が帝国主義列強の餌食になることを避けてできるだけ早く近代化を達成するために採用せざるを得なかった仕組みです。

自ら土地を所有する自営的農民や、村落共同体で共同的に土地を所有する共同体的農民から土地を取り上げ、かられを単なる雇われ農夫や都市の工場労働者に転化させることがこの体制の主たる課題です。

農地改革と同時に都市にも工業建設を進めなくてはなりません。明治期の日本もはじめのうち大規模資本を必要とする重工業などは、官営工場を設立して開発を推進しましたが、日本よりもさらに遅れた国では、これをもっと徹底して行う必要があり、ほとんど全ての産業が国営・準国営の形態で設立・運営されるようになっていったのです。

経済的な権限を国家に集中させる必要は、結局のところ政治的権威の集中にもつながります。利権を官僚が握り、この利権を守るために政治権力も彼らが握ろうとする、資本主義国ならどこにでもあることですが、それが極端な形で現れたのが国家資本主義のケースだと考えることもできるでしょう。

ちなみに、国家資本主義型の独裁的な開発様式は、必ずしも「共産」主義と結びつくものではありません。明治期の日本もかなり薄めでしたが、開発独裁の傾向を持っていました。それは「共産」主義ではなく、「尊皇思想」「国権主義」などとの結びつきが強いものでした。

第二次大戦後のフィリピンのマルコス体制、インドネシアのスハルト体制も、反共を国是としていましたが、国家主導の経済建設と政治的自由の抑圧という点では、国家資本主義の色彩の強いものでした。

何か思想が初めにあって、それが経済体制や政治状況を決めるのではありません。逆です。その「国」の置かれた経済状況からその国にとってある程度合理的な経済体制のあり方やのその建設手法の選択肢がいくつかに絞られてくるのです。

その選択肢の中から、その時々の偶然的な出来事なども作用して、実際にどんな体制が目指され、それを実現するためにどのような手法を用いるかが決まって行き、その結果として、この体制構築にふさわしい思想というものが形成されてくるのです。

だから実際に、国家資本主義でしかなかった「共産主義国家」の「共産主義」や「マルクス主義」は、マルクス自身の理論とは似て非なるものに完全に変形されています。これらの国々で支配的な地位に付いた人たちが、自分たちの都合のいいようにアレンジして行った結果です。

「共産主義(実は開発独裁主義)」思想、例えば「画一的平等主義」が独裁体制を生むのではありません。開発推進のために権力集中が必要だから独裁体制が成立し、この独裁を正当化するために手近な理論・思想を勝手に作り変えて利用するのです。

マルクスは人間の権利は《不》平等であるべきだといっているのですが、スターリン型国家資本主義体制下では平等が大切という思想が喧伝されていました。国民から多くを取り上げて官僚が必要とするところに資源を集中させるためにそのような思想を吹き込むことが好都合だったのです。

わざわざ歪曲するなら、マルクスを利用しなくてもよさそうですが、歪曲してでもマルクスを利用したい理由の一つは、マルクスが「プロレタリアートの独裁」という言葉を使っているからです。ここでマルクスが言っている《独裁》は、三権分立に対して、三権を兼ね備えたものとしてのコミューン、レーテ、ソヴィエトなどの評議会制度のことです。しかもこの評議会の議員は、有権者の拘束委任を受け、有権者の意向に沿って活動しない場合は、いつでも解任できるというものです。

つまり、マルクスは、立法・司法・行政権の執行者に対する有権者による管理・監督のことを《独裁》と表現したのですが、国家資本主義の支配者にとっては、これをちょっと捻じ曲げれば、反対に官僚による国民統制を正当化してくれる理屈になると見えたようで、《独裁》の言葉がマルクスの意図とは正反対の意味で利用される結果となってしまいました。

市民社会がある程度成熟している発達した資本主義国で、マルクスの理論が学問的に自由に研究されていくなら、このようなことが起こる心配はなくなるでしょう。

 
 
イヴァン・イリイチをご存知でしょうか(唐突でごめんなさい)。
 
彼は、資本主義的生産様式(イリイチ自身の用語では産業的生産様式、または商品集中社会)と国民国家の成立過程で、民衆はその自律的能力を次のようにことごとく奪われたのだと指摘します。
 
地域生活に根ざした言語(方言)は、母国語として特殊な場所(学校)で特殊な訓練(公教育)を通じて専門技術者(教師)の指導の下習得しなければならない、技術へと転化しました。このことにより民衆は自ら教えあい学びあう能力を失ったのだと彼は、言います。
 
また、かつて人々は病気に対する治癒力を持っていました。しかし、商品集中社会へと移行して以後、病気への対応は、病気になったその人自身の体の問題 (人身の自由!) であるのにも関わらず、本人が妄りに手を下してはいけない事柄とされ、専門家によってのみ供給される高価なサービス商品となりました。こうして人々は治癒力を失ったのだと、イリイチは主張します。
 
これらの変化すべて、人々を商品に依存した生活に取り込み、マーケットとして企業の儲け口・および労働力という企業活動の資源として組織することと表裏一体です。
 
民衆の文化と伝統もまた、このような商品集中社会形成の過程で、産業家たちによって樹立された国家権力によって剥奪され、かれら産業家の権力を権威付けるために利用されたのです。
 
商品・貨幣・資本(企業)が、できるだけ広い範囲を駆け巡り常に新しい儲け口を探し出せるようになるには、地域ごとに異なる商習慣や言語文化は邪魔なのです。新しい産業、新しい地域を求めて動き回る資本(企業)にあわせて企業活動に必要な資源である労働力もできるだけ広い範囲を自由に移動してもらわなければなりません。人々がムラ意識を持っていてよそ者が居づらいような閉鎖的地域の寄せ集めがかろうじて国家としての体裁を保っているような状態では、資本の活動には不都合なのです。民族=国民としての単一の文化、言語、できれば宗教が必要なのです。
 
こうして民衆の文化は、産業活動に奉仕するために組織された国民国家(資本の国家)によって民衆から強奪され、産業活動の生贄となったのです。
 
国民国家によって奪われた文化と伝統を取り戻すためには、まず国民国家そのものを解体することが必要です。資本の国家からの伝統と文化の解放とは、現存の国家を解体して自治的・分権的な生活圏域ごとの地域的行政システム(身の丈にあった政府!)に置き換え、これらのゆるやかな連携を、民族、言語etc.の違いに関係なしに、ただ生活の必要に応じて取り結ぶようにして、生活に根ざした民衆文化の復興を図ることに他なりません
 
オリジナルはkinks。
 
 
 
 
《皆さん
 

国家社会主義は、素晴らしい主義だと思いませんか?社会主義は揚げないが資本主義の問題点を国家で解決して行こうという社会保障を充実させる政策を行う。そして民族としての共同体を創り国家は、独裁政治を行い国家としてのまとまりを持つ。

 

この主義は、素晴らしい物だと思ってます。しかし世界の風潮ではナチスを背景に世界初否定的です。確かにナチスはホロコーストを行ったかもしれませんですが国としては非常に豊かではありませんか、ヒトラーは国家社会主義の根本として貧困者を無くしたではありませか確かにナチス派過度で批判されるかもしれませんがアメリカだって原爆を落としましたし、あれは、一般市民の虐殺ではないでしょうか?。

 

皆さんは国家社会主義(ナチス含む)についてどう思っていますか
国家社会主義を最高の主義だと思う同士はいないでしょうか?
国家社会主義を最高の主義だと思っている私は異常でしょうか》

 
「民族」なんて幻想ですよ。

貴方は、「民族」とやらの外延を確定できますか?

それができないなら、「民族」なんてものは実在しないということです。そして、実際「民族」の外延は絶対に規定できません。所詮まやかし、それこそ正真正銘のフェイクです。

そんなものに依拠した国家などあの程度しか持たなくて当然です。そもそも、国家なんて長い人類史のなかで一時的に発症したがん細胞のようなものです。ある方が異常なのです。社会の養分を吸い取って肥え太る国家など、切除すべきです。

仮想敵をでっちあげて、資本と労働のラディカルな対立を糊塗・隠ぺいしただけのまやかしが国家社会主義です。ソ連の国家資本主義の方が長持ちしただけまだしもマシというのは、さすがに言い過ぎかもしれませんが、50歩100歩でしょう。

人間と自然とのあいだの物質代謝を意識的・協働的に制御するという人間の本性に根差しアソシエートする諸個人こそが、来るべき社会の主役です


https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/37006689.html
 
 
 
 
直接的生産過程での必要物の自然からの摂取によって非有機的身体が提供され、それら非有機的身体の消費を通じて人間各自の有機的身体が維持・再生産される。
 
有機的身体の維持・再生産のためには、この有機的身体からの排出物と社会的な排出物(不要となった非有機的身体=物質的財貨)の処理が不可欠である。さらにそのようにして有機的身体のうちに再生産された労働力が再び非有機的身体の生産のために支出される。
 
こうして円環的な過程が形成され生産が反復されることによって、直接的生産過程が社会的再生産過程の一契機であったことが明らかになる。
 
〈社会的再生産〉は、次の4つの契機の統一である。(1) 人間一人一人の再生産…食事をして睡眠をとって,自分の生命を維持すること、(2)人間の世代的再生産…子どもを産んで育てること(これが(3)の基礎)。(3)社会システムの再生産…社会のしくみを維持すること、そして、(4)として以上の3契機で使用される物質的な諸手段の生産、すなわち直接的生産過程である。