ちょうど1年前,赤旗の正月特集であろう志位氏と民青同盟代表との対談記事にたいして次のような感想がポストされた。
『日曜版』お正月号の巻頭はかずおと民青の未来社会についての対談だけど、自由時間の短縮[ママ。多分「自由時間の拡大」か「労働時間の短縮」の間違い]による『必然性の国』から『真の自由の国』を論じるなど到底、科学的社会主義の政党とは思えないサイエンス・フィクション(S F)社会主義が全開だなぁ〜
いかは,それにたいして僕が行った返信ポストです(複数回に分けてポストした文章を一本化し必要に応じて加筆修正)。
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日本共産党本体は、紛れもなく空想的社会主義に他なりませんが、マルクスの「自由の領域」論が空想とは聞き捨てなりません(和良和良。生産力向上とそれによる余暇時間の拡大の相乗効果は、現実問題としても重要です。80年代――日帝にも余力のあった時代には、ブルジョア企業ですら取組んでましたよ。
問題は物質的窮迫性の克服を如何にして実現するかです。この点の曖昧さが空想性に繋がるのです。労働生産力向上が必要条件であることは、恐らく共通了解でしょう。又、諸力を向上させる手段や方法も、ここでの直接的な論点でないこともご理解頂けると思います。
労働生産力の向上それ自体は、剰余価値取得と自己増殖の手段として資本自身が常に貪欲に追求しているからです。しかし、そうであるからこそ、この向上の成果は、自由時間の拡大ではなく、剰余労働時間の拡大となって現れます。これを如何にして自由時間に転化させるかが曖昧であれば、この議論が空想的なものになってしまうのではないでしょうか。マルクス自身は、この点についてこの箇所では直接詳細を語っていません。しかし、末尾で「労働日の短縮こそは根本条件である」と指摘しています。僕らは、この一句を見て直ちに『資本論』第1部第八章の後半の三つの節を想起すべきなのです。労働時間短縮のための闘争が、まず直接的にそれ自体が剰余労働時間を自由時間に転化させることそのもの(①)であり、同時に資本に生産力の更なる向上を促迫(②)し、加えて、向上した生産諸力の制御が資本の体制下では不可能であることを実証(③)することによって、自然とのあいだの質料変換を合理的に規制する必要性を社会的に開示します。この3点において、現下の労働者階級の闘争が真の自由な領域の実現と結びついているのです。このつながりを切断してマルクスの「自由の領域」論を遠い未来の話としてのみ扱うなら、空想的だといわれても仕方がないでしょう。
最後に、もう一点。労働者の闘争が「同時に資本に生産力の更なる向上を促迫」するといっても、資本主義の下では、どのような労働生産力を各々どこまで向上させるかという社会的分業の総体編成の在り方までは、労働者は勿論、資本家階級も制御できません。 個別資本が各々勝手に自己増殖に有利と判断した生産力を発展させるからです。エッセンシャル・ワークやその担い手を支える技術や産業、環境の保全や修復に役立つ技術や産業よりも、ブルシットジョブや環境破壊的な技術や産業が発達しがちなのは、そのためです。この状況からの脱却(=質料変換の合理的制の追求)も、権力獲得後に初めて着手できる課題と捉えるのは誤りです。資本の支配のもとでも資本の運動を部分的漸進的に規制することは可能であり、この規制力の発達がほかならぬ権力獲得の条件の一つだからです。資本に対する規制力を行政権力のみに限定する狭い見方から脱却する必要があります。率直に言って日本共産党においては、そうした狭い見方が優勢であると見受けられます。行政権力よりは、労働運動や産業協同組合運動の規制力の方が、資本に対する規制と社会化された人間、結合された生産者たちによる質料変換の合理的規制の実現とを結びつける環としてはるかに重要です。これを言うと、反発する人が多いかもしれませんが、ミキサー車ドライバーの組合が生コン業界を協同組合に組織化したかの運動は、この点から見て、画期的なものだったのです。それを世間の偏見に屈服して票が逃げそうだからと切り捨ててしまったことは大きな過ちだったと思います。