一君万民 : 一人の君主の下では、他のすべての人々は平等であるという思想。
吉田松陰は「天下は一人の天下なり(天下は天皇のもの)」という一君万民論を説いた。これは、幕藩体制下の身分制度を否定し、天皇の下で全国民(万民)が平等に国難に立ち向かうべきだという思想である。
奇兵隊は、この「一君万民」の精神を軍事組織として体現したものだといえる。武士だけでなく、農民、町民、力士、僧侶など、志があれば身分を問わず入隊を認めた。これは、藩(封建社会)の兵ではなく、天皇と国家のために戦う「万民」の結集を意味する。そこでは、 力量中心の編成を行い、旧来の家格を無視した運用がなされた。後に明治政府が行う「四民平等」や「皆兵制」の先駆的モデルと評価されることが多く、一君万民論が目指した「身分を超えた国民国家の形成」への第一歩であったと言える。ただし、実際の運用面では、依然として給与や服装に身分差が残っていたという指摘もあり、完全な「平等」というよりは、「一君(天皇)」への忠誠を大義名分として、既存の身分制を突破するための手段として機能した側面が強い。
君民共治:君主と人民が共同で政治を行うという考え方
明治初期の政治家、特に大久保利通らが提唱した国家構想で、欧米列強に追いつくための富国強兵・殖産興業には国民一人ひとりの自発的な活動が不可欠であり、国民を抑圧する絶対君主制でも、完全な民主政治でもない、日本独自の「君民共治」という統治形態が適していると考えられた。君主の権威の下、一定の制限付きながらも国民の政治参加(例えば府県会の設置など)を認めるという、立憲君主制的な性格を持っている。
権藤成卿の自治主義的「君民共治」論:天皇の権威の下、国民一人ひとりが自発的に地域の「自治」に参加し、共同で国の政務に当たるべきだという考え方
大久保利通らが唱えた上からの制限的政治参加としての「君民共治」とは異なり、西洋的な民主主義や個人主義に対抗し、日本の伝統的な共同体的な精神(共存互恵の観念)に基づく政治体制を理想とした。権藤は、日本の古来からの「成俗(せいぞく、地域の慣習やしきたり)」に基づき、人民が自らを治める「自治」こそが政治の基本であると考えた。近代化に伴う資本主義経済の浸透や、国家による画一的な統制に批判的で、農村共同体を理想的な社会の基盤とする農本主義の立場を取ったのである。国家や政府による人為的な法律や制度(「偽道」)を排し、「天理自然の常則」に従うべきだと主張した。五・一五事件の思想的背景となったとも言われるが、彼は工作者というよりは純粋な思想家だった。 実際、日帝は彼を訴追することはできなかった。事件に直接関与していなかったからである。
権藤は、農村などの最小単位の共同体を「社稷(土地の神と五穀の神)」と呼び、これが自治の最小ユニットであると考えた。外部から押し付けられた法律(偽道)ではなく、その土地で自然に育まれた習慣やルール(成俗)を重視した。権藤の「君民共治」は、絶対的な権力者としての君主ではなく、象徴的な権威(天皇)の下で、全ての民が自治主体として横に繋がることを意味するのである。
一君万民とルソー的集権化(結束主義)の共通点
中間団体の否定:
- 一君万民: 幕藩体制や士農工商といった封建的な「中間団体」や身分制度を否定し、すべての国民が「一君」に直結することを理想とした。これにより、藩という領邦国家的な枠組みを解体し、国民国家の形成を可能にした。
- フランス革命初期: ル・シャプリエ法(1791年)などでギルドや同業組合といった中間団体を禁止した。これは、ルソーが『社会契約論』で説いた「一般意志(公益)」は、個別利益を追求する中間団体によって歪められるという思想の影響が強く出ている。
- どちらの思想も、封建的な特権を廃し「平等」を実現するという点では進歩的だったが、その結果として、多様な中間組織が持つ自律性や多様性を排除し、国家(あるいは「一君」)の下での均一化・集権化を招いたという共通の側面がある。
つづく

