ここ数日、罪悪感という名前のウイルスが我が国にじわじわと蔓延しているような気がします。
「罪悪感ウイルス」にむしばまれると、精神衛生上、あまり好ましくありません。
人によっては深刻な心的ダメージを受けたり、トラウマを残してしまう恐れさえあります。
ひいては、国のためにもなりません。
以下のような自覚症状のある方はご注意ください。
1.自分はこんな暖かい部屋で、のうのうと美味しいものを食べていていいのだろうか、などと考えてしまうことが多い。
2.被災地の人たちのことを考えると、会社を休んで救援ボランティアに応募しなければいけないような気がしてしまう。
3.義援金はいくら出せばいいんだろうか、5,000円くらいでいいのだろうか、などと悩んでしまう。
4.何をしていても楽しい気分になれない。
5.せめてあと1週間ぐらいは、声を上げて笑ったりしてはいけないような気がする。
6.こんなときに旅行に出かけたりする人間を見ると、けっこうムカつく。
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もちろん、無念にも亡くなられた方々や、住む家さえ失った被災者の方たちのことを思えば、「罪悪感ウイルス」にむしばまれて精神的ダメージを受けるぐらいで、文句を言っている場合ではないかもしれません。
しかし、幸いにも被害をまぬがれた我々には、これからの日本をもう一度立て直す義務と責任があると思います。
16年前の阪神大震災の傷跡も癒えない日本をまたもや襲った大惨事に、多くの国民が打ちひしがれているかもしれません。
あの大震災から復興するために使われた国家支出は5兆円だといわれていますが、今回の震災と津波の被害から東北地方を立ち直らせるには、10兆円以上が必要だと考えられています。
その財源を捻出するために、消費税の税率が大幅に引き上げられるのか、あるいは国債が追加発行されるのか、それは近いうちに国会で決められることでしょうが、いずれにしても私たち日本人は、みずからの努力と責任でこれから先を生き延びていくしかありません。
国家の運営までも諸外国の支援をあてにすることはできないからです。
それと同じように、我々国民ひとりひとりも、やはり自分の責任においてこれから先を生き抜いていくしかありません。
そして、もう一度みんなで力を合わせて「元気なニッポン!」を取り戻さなければいけないと思います。
独裁国家や共産主義国家ではない民主主義の国に生活している我々は、さまざまな自由を与えられていますが、当然のことながらその自由と引き換えに、自分の生活は自分でしっかり守らなければならない義務があります。
私たちのひとりひとりにそれぞれの生活があり、養うべき家族があり、なすべき仕事があります。
そうなると、たとえ多くの同胞が困っているとしても、我々にできることには限界があるかもしれません。
自分たちの日々の暮らしや将来を犠牲にしてまで、他の人たちを助けることはできないかもしれません。
今はインターネットの時代であり、特に今回のような大事件のあとは、多くの人がパソコンの前に座り、事態の推移を見守っていることでしょう。
そのようなときに、赤十字などへの募金を呼びかけるのであれば納得できますが、たくさんの怪しげなサイトが、自分たちのサイトへの、クレジットカード決済での義援金を募集しているのを眼にすると、警戒などするより先に、悲しくなってしまいます。
その一方で、いたずらに人々の罪悪感をあおり立てるような書き込みが、ネット上に数多く見られるのも事実です。
つまり、なぜあなたたちは被災者たちのためにアクションを起こさないのか、どうして困っている人たちのためにできる限りのことをしないのか、それでも日本人か、それでも人間か、という論調の記事が、このところ日本中を飛び交っているように感じられます。
たとえコンビニで買い物をしたときに、釣り銭の何十円かを募金箱に入れなかったとしても、たとえ有り余る衣服の中からたった一枚さえ救援物資として差し出さなかったとしても、そのような人たちもやはり日本人であり、人間です。
他の人たちがとやかく言うべき問題ではないかもしれません。
人それぞれに価値観や人生観は違うのですから、驚くほど気前のいい人もいれば、驚くほどケチな人もいます。
人それぞれに個性があり、それぞれに人権が保障されています。
ファシズムの社会ではありませんから、私たち日本人には、自分の生活を犠牲にしてまで人助けをしなくてもよい自由も与えられているはずです。
しかし、やはり我々は人間ですから、今回のような惨事を目のあたりにすれば、人によっては激しく動揺し、テレビを見ながら悲鳴を上げたり、泣きじゃくったりした方も大勢いらっしゃることでしょう。
また、あの津波の折、テレビ局の報道部のディレクターたちは、局にショッキングな映像が届くたびに、「これだ! 次はこれを使え!」「10分おきに流せ! これはすごいぞ!」などと騒いでいたらしいですから、その結果として東北地方以外の日本国民のすべてが、この世のものとも思えない恐ろしい映像を何度も繰り返し見せつけられ、気の弱い人たちは恐怖に震え上がり、そうでない人でも、あの一連の映像には言い知れぬ戦慄を覚えたことでしょう。
幸福に生きる権利を奪われ、これから先、当分のあいだ避難所での苦しい生活を余儀なくされる被災者たちの中には、親や子供や配偶者をなくされ、自分だけが生き延びたことを申し訳なく思っていらっしゃる方もおられるようです。
このようなメンタリティ(ものの考え方や心の動き)は、特に私たち日本人に顕著な傾向かもしれません。
今から40年ほど前、グアム島のジャングルの中で28年間もたった一人で苦しい生活をされたあと、地元の漁師に発見され、ようやく日本に帰ることができた旧帝国軍人の方が大きな話題になったようです。
その方のお名前は横井正一さんです。横井さんは、羽田空港に降り立ったとき、「恥ずかしいけれど帰ってまいりました」とおっしゃったそうです。
一緒に戦った仲間たちが死んでしまったのに、自分だけが生き延びたことを恥ずかしいと思われたのです。
お国のために死ぬことが当たり前だと考えられていた時代はとうに過ぎ去っていることを、平和になった祖国に戻ってからも実感することができなかったのかもしれません。
しかし、今はそんな時代ではありません。一億玉砕などというファシズム思想は過去のものです。
アメリカが作ってくれた民主憲法のおかげで、私たちはさまざまな自由を謳歌しながら生きて行くことができます。
しかし、自由には代償が付き物です。
自分の暮らしは自分で守り、そして、いつか自分自身が今回のような惨事の被害者になったときは、自分を助けるために指一本動かそうとしない人たちも世の中にはたくさんいることを認めなければいけないと思います。
その人たちにはその人たちの生活があることを理解しなければならないと思います。
もちろん、これから先ボランティアとして被災地に出向き、被災者のために働く人たちは立派です。賞賛と尊敬に値すると思います。
ただ、そのような人たちが、自分と同じような行動をとらない人たちを非難したり、軽蔑したりすれば、その行動は尊敬に値しなくなるかもしれません。
自分と同じ行動をとらない人たちにも、人権や、それぞれの生活を営む権利があるということを充分に認めてこそ、ボランティアの方々の気高い行為は、国民からの惜しみない賞賛に値すると思います。
以上、いくらか支離滅裂な文章になってしまった気もしますが、今日はなんとなくこんなことを考えてしまったので、取り急ぎ記事にしてみました。
(終わり)
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