字幕の黙示録 (第3章) 夢へと続く暗く険しい道 | 正しい英語を教えちゃる!

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 ユウナちゃん、お久しぶりです。4年前にユウナちゃんの家の前庭で、モミジの木にクルマをぶつけちゃったオジサンです。

 ユウナちゃんは、この四月から高校2年生になるんですね。最後に会ったのは中学1年生のときだったから、またあれからずいぶん大きくなったんでしょうね。

 そして、どんどん素敵な女性になってるんじゃないのかな。

 

 お父さんから聞きましたが、ユウナちゃんは将来、学校の英語の先生か、できることなら洋画の字幕翻訳家になりたいそうですね。

 字幕翻訳家になるための何かアドバイスのようなものがあったら、いつか娘に教えてやってくれないかと、お父さんから頼まれていたので、今日この手紙を書いています。

 

 ただ、ぼくがこれから書こうとしていることは、アドバイスと呼べるようなものではないかもしれません。

 映画の字幕翻訳家を目指すとはいったいどういうことなのか、あるいは、字幕翻訳の業界とはどういうところなのか、そんなことについて、ぼく知っている範囲内でユウナちゃんにお話ししようと思っています。

 あくまでぼくの話は、ぼくがこれまでに何かで読んだり、映画業界に詳しい友達から聞いたりしたことをもとにしているだけなので、そのつもりで聞いてください。

 

 今の時代は、いつでも気軽に、家に居ながらにして外国の映画を、DVDやケーブルテレビで楽しめるようになっていますから、洋画や外国語というものが、とても身近に感じられるのは事実ですね。

 そんな世の中を反映しているのでしょうか、ユウナちゃんだけでなく、若い人たちのあいだに、字幕翻訳家を目指す人も増えていると聞きます。

 

 英語が得意で、日本語の表現にも自信があり、そのうえ映画というものを深く愛しているような人であれば、将来の職業の選択肢の中に字幕翻訳家を加えたとしても、とくに不思議なことではありません。

 

 誰もが、できることなら自分の能力を活かせる仕事に就き、有意義で充実した毎日を送りたいと思っているでしょうし、まして英語や映画が大好きな若者であれば、いつかは字幕翻訳家として第一線に躍り出て、功成り名遂げる自分の姿を夢見ているかもしれません。

 そんな若い人たちのために、近頃では、字幕翻訳の基礎から応用までを教えてくれる英語スクールや、語学専門学校の「映像翻訳コース」というものが次々に誕生しているようです。

 

 たしかに、日本の洋画ファンが日頃から眼にしている日本語字幕は必ずしも高い水準に達していないことを考えれば、アメリカ映画のDVDなどを観ているときに、「この程度の字幕なら私にも作れる」「ぼくなら、これよりずっと気の利いた字幕を付けてみせる」と感じる人も多いかもしれません。

 

 また、映像に字幕を付けるという作業は、理屈とコツさえ覚えてしまえば、それほど難しいことではないはずです。

 言い換えるなら、決して人並みはずれた才能や修練が要求される仕事ではないと思います。

 たくさんの若者たちが、自分にも到達できそうな目標として字幕翻訳家を目指しているとしても、まったく驚くにはあたりません。

 

 ただ、字幕翻訳が巧みにこなせるということと、字幕翻訳家になれるということは、まったく別の問題です。

 たとえばユウナちゃんがこの先、海外留学か何かで非常に優れた英語力を身に付け、そのうえケチの付けようのない日本語の表現力と、おまけに字幕作りのノウハウを完璧に習得したとしても、はたしてすぐにユウナちゃんが実際に、新進気鋭の字幕翻訳家として活躍できるかどうかといえば、それは残念ながら、大いに疑問であると言わざるを得ないのです。

 

 我が国の映画業界に関わっている人であれば誰でも知っていることのようですが、映画字幕製作の世界というのは、とうてい無名の新人が入り込めるような場所ではなさそうです。

 日本には「映画翻訳家協会」という団体があって、洋画配給会社の字幕を担当するためには、この協会の会員であることが前提条件となっています。

 そして、この協会はとても閉鎖的な組織なので、新規会員としてここに名を連ねることは、ほとんど不可能に近いかもしれません。

 

 協会の会員の数は、1990年頃は22人だったらしく、2011年の現在、その数は24人です。

 つまり、この20年間で、たった2人しか増えていません。

 もちろん、この20年のあいだには、何かの理由で会員をやめたり、仕事から引退した人もいるでしょうから、新しくメンバーになった人が2人だけということではないと思いますが、いずれにしても、よほどのことがない限り、この協会に入るのは非常に難しいのではないでしょうか。

 

 協会員になるためには、現会員2名以上の推薦を受けたうえで、入会のための審査に合格しなければいけないそうです。

 そして、おそらく現会員たちの推薦を得るためには、かなりの年月を彼らのために犠牲にしなければいけないかもしれません。

 彼らに気に入られるために、いろいろな雑用や下働きなどをする必要があると思います。 

 もちろん、一人前になるために、長い下積みの時代を耐えなくてはならない世界は他にもたくさんあります。

 字幕の世界は、そんなひとつにすぎないのかもしれません。

 

 毎年日本に輸入される四百数十本の外国映画を、今のところは「映画翻訳協会」が一手に引き受けているようです。

 四百数十本を24人で分け合えば、一人あたり約20本ということになりますが、実際は、協会内での力関係によって、会員一人ずつに割り当てられる担当本数は大きく異なっているようです。

 

 1本あたりの翻訳料が40万円以上という魅力のせいかどうかはわかりませんが、数人のベテラン翻訳者が、一人で年間に40本から50本も引き受けてしまうのが現状のようです。

 

 それ以外の会員たちは、そのオコボレにあずかるような形で、一人につき年間わずか数本ばかりの翻訳を担当させてもらっているのが実情です。

 劇場で洋画を観ていると、めぼしい作品のほとんどに、毎度おなじみの翻訳者たちの名前ばかりが登場しますが、それは以上のような事情によります。

 

 はたして、このような状況が将来どのように変化していくのか、それは誰にもわかりませんが、少なくとも現在の時点では、外国映画の字幕翻訳家を目指すということは、上下関係によって利権が分配されている閉鎖的な世界に、横から割り込んでいくのと同じことです。

 

 ただ、社会の中のいろいろな分野で、既得権益を保護するための組織やシステムは存在していますから、この協会の体質自体は、特に法に触れるような種類のものではないかもしれません。

 また、仮に何らかの法律に反する箇所を協会の運営方法などの中に見つけることができたとしても、その状況を改善するためには、協会や配給会社を相手取って裁判を起こす必要があるでしょう。

 もしもそうなった場合は、長い年月と、多額の費用と、たくさんのエネルギーを、勝てるかどうかもわからない裁判のために費やさなければいけなくなります。

 もちろん、そんな愚かしいことに挑戦する人はいないと思います。

 

 今はテレビの多チャンネル放送の時代なので、劇場用映画以外にも字幕翻訳の仕事はあるかもしれません。

 ただ、おそらくそういう種類の業務は、映像翻訳専門の会社などが利権を握っているでしょうから、その会社に就職しなければ仕事ができませんし、たとえ就職できたとしても、この不景気と過当競争の世の中で、いつなんどきその会社が倒産するかもしれません。

 ビジネスの世界というのは、そして現実の社会というのは、たぶんユウナちゃんが想像しているよりも、ずっと厳しいところだと思います。

 

 こんなことばかり書いていると、なんだか字幕翻訳家に憧れるユウナちゃんの夢を無惨に打ち砕いているようで、とても心苦しいのですが、現実のありのままの姿をしっかり認識しておくことは、とても大切なことだろうと思います。

 

 そして、ユウナちゃん、自分自身に問いかけてみてください。

 はたして自分は、こんな厳しい世界に飛び込んでいけるのだろうかと。

 絶対に途中でくじけたりせずに、夢に向かって歩き続けられるのだろうかと。

 

 

 ユウナちゃんのお父さんは、あなたのことをとても愛していて、あなたがこれから先、幸せな一生を送ってくれることだけを、心から願っています。

 どんな理由であれ、あなたが悲しい思いや、つらい思いをすることがあったら、お父さんは、声を上げて泣いてしまうかもしれません。

 

 ユウナちゃんだって、大好きなお父さんを、泣かせたり苦しませたりはしたくないはずです。

 だったら、学校の先生になることを考えてみてはどうですか。

 もちろん、最終的にあなたの進路を決めるのはあなた自身ですから、学校の先生になりなさい、なんて押し付けがましいことを言うつもりはありません。

 ただ、ユウナちゃんも知っているかもしれませんが、ぼくはこれまで学校の先生の仕事だけをしてきましたから、この世界のことについてなら、自信を持って言えることがいくつかあります。

 

 ぼくは、最初は公立高校の英語教師になって、そのあと短大の講師の募集に応募し、そこで何年間か務めたあと、今の学校に雇ってもらってから数年がたちます。

 ビジネスの世界であれば、いろいろな競争や、駆け引きや、足の引っ張り合いなどがあるのかもしれませんが、学校の先生たちのあいだには、少なくともぼくが知る限り、そんな面倒くさいものはありません。

 売り上げや、業績や、ノルマなどとも無縁の、とても平穏でのんびりした世界です。

 

 先生になった日から今日まで、ぼくは、職場での人間関係で悩んだり苦しんだりしたことなど、ただの一度もありません。

 上司から叱られたり、怒鳴られたりしたこともなければ、イジメにあったり、理不尽な扱いを受けたこともありません。

 そもそも、基本的に教師たちというのは、休み時間や放課後ぐらしか顔を合わせませんからね。

 

 また、運が良かったのかもしれませんが、教師を困らせるような生徒を受け持ったこともないので、生徒のことで悩まされた経験さえありません。

 テレビ・ドラマの「3年B組」みたいに波乱に富んだクラスは、やはりテレビの中だけの話ではないでしょうか。

 

 どんな仕事にも長所や短所はあると思いますし、これから先、教師たちも失業するような時代がこないとも限りませんが、少なくとも今のところは、学校の先生になれば、一攫千金やボロ儲けはできないかもしれませんが、とりあえず収入も安定していて、穏やかな毎日が送れるのではないかと思います。

 

 ただ、最後にユウナちゃんに言っておきたいことは、教師という職業は、一度なってしまえば気楽な稼業かもしれませんが、なるまではけっこう大変かもしれないということです。

 なにしろ、教師になりたがっている若い人なんて、今は日本中に何十万人もいるかもしれませんからね。

 結局ところ、どんな世界にもライバルはたくさんいるということでしょう。

 

 ですから、もしも本当に学校の英語の先生になりたいと思うのなら、今のうちからしっかり気を引き締めて、先生になるために自分は今何をすべきなのか、ということをいつも忘れないようにしてください。

                                  

                               モミジの木のオジサンより

 

 

 

 

  字幕の黙示録 (第3章) (終わり)

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