人の心を捉えることは、難しい。
心は、命のあるがままを感じて、
それにどう繋がるか?
どう気づくかである。
その感覚をどう受け止めたらいいか
分からないで迷う。
それが、心の感覚かな?
分からないことに
未来があるような気がする。
だから、人は、考える。
考えることが生きる喜びに繋がる。
必死で悩む。
悩むのは、心を掴むため。
心の在り方を知りたいため。
心(のニーズ)に気づければ、
それが自分の思いになる。
それと利己的思いとは違う。
利己的とは、心の感覚が
分からないから
自我が思い込んだものに執着して
心を深掘りすることを止める。
だから、心は、
その執着を取って欲しいと言う
新たなニーズ
新たな苦しみが生まれる。
それが私を縛る。
思い込みは、心を支配しようとする。
この感覚があると
人に対してもそれをしている。
自分の内なる自我の働きが
外の世界を創っている。
だからあるがままを
受け容れられなくなる。
そこに感覚的な
痛みや苦しみがある。
そして、自分が縛っているのに
自分は、解放されたいと思っている。
私の変わりたい感覚は、
その歪みを捉えている。
思考は、別の何かを
見つけようとする。
人は、変わりたいのに
変われないのは、
変わりたいのは、感覚なのに
思考で問題を解決しようとする。
命の変わって欲しい気持ちを
自我は、受け止めていない。
素直な心になると、
自我が反省して
(心を入れ替えて)
自我意識が、内から沸き起こる
魂の感覚に従うようになる。
それが起こらないと
変わりたい自分は、どうせだめだと思い込む。
自我と心の感覚(本当の自分)
との葛藤が苦しみだが、
思考が必死に
悩み(自我の執着)を捉えるので
感覚は押さえつけられてしまう。
私にも私を押さえつける
自我の思考いるが、
それは、自分が小さい時に
押さえつけられた体験と関係があると
ユングの考えが言うので
そこに眼を逸らせようとする。
でも単純なのは、
いまここの感覚。
思考は、事実を歪める。
それが、感覚としては、苦しい。
思考は、感覚の
変わりたい気持ちを
受け止めていない。
ただそれだけ?
そして、その思いは、
時間とともに薄れて無くなる。
変わろうと思う想いも
今この瞬間に変わり続けている。
だから、思考は、長続きしない。
思考は、今ここの思いを
解決しようとして彷徨う。
私の場合は、父の虐待から
自分を守ったと思っていたが、
私の心の中には、
父を否定する自我が
自然な私の命の自由な感覚を
否定するように働いていると感じる。
イルカとのふれあいで
自分の感覚に気付くセラピーがある。
純粋にあるがままの感覚を
体験することの大切は、
何処にあるのだろうか?
その純粋さとは何だろうか?
音楽や美術、スポーツでも良いが
自分の感じた感覚を受け止めるとは何か?
感覚は、命の気付き、
それを受け止めることが自我の気付き。
気付きは、何故起こるのだろうか?
自分自身と一体になる体験は、
気付き(繋がり)の体験です。
そして、自分の感覚に
一番フィットする生き方を掴み取る。
フィットの感覚は、
小さな悟り。
心が求めているものを
意識が感覚で掴み取る。
それを思考で掴み取ろうとすると
間抜けになる。
感覚を解放させることが
大切だと感じる。
意識は、一つのことにしか
集中できない。
感覚の扉を開くのも
自我の扉が開かないと開かない。
感覚は、本来の自分
そのものの表現である。
感覚の自然な流れのままに
その流れに乗る。
私は、自然を
美しいと感じる。
そこにも命の感覚からの
使命が隠されていると思う。
命は、その感覚を
生きるように求めている。
その思いに従う時
心にやすらぎが湧き上がる。
私のエゴは、私が自分の身を守るために
身に付けた鎧(習慣)であるが、
私があえてそれを求めるのは、
私の過去の体験の学習である。
それは、過去の体験を
癒すことで直るかもしれないが、
それは、多くの場合、
より複雑になる。
それは、他人の金儲けに
利用されていることが原因だと思ったりする。
私は、自分のエゴを捨てて
感覚のままに生きれることが幸せだと思える。
そこには、変わることを求める
自分はいない。
私も悩みは多いですが、
悩みの解決は、
自分の命の感覚と
繋がることだと思います。
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