心は、命の声を感じる。

聖なるエネルギーの源。

 

心を解放させることは、

自我の意識を消すこと。

 

宗教は、誠の教えを説いている。

でも誠の心は、命が感じ取る。

 

私の意識は、意識の内と

外の両方に向かう。

 

その意識は、命のままに

命の願いを生きる使命を生きているように感じる。

 

その内なるエネルギーが

満ちて来る時に幸せを感じるように思う。

 

仏陀が悟った法(如来)も

如から現れ来るものを

 

捉えているが、

その存在を感じるには、

 

直感や内から満ちて来る

エネルギーの存在を

 

命の働きとして

捉えることが必要だと思う。

 

私がそれを理解したのは、

その働きに気付いて

 

それを意識化して

感覚を捉え始めてからです。

 

それは、皆が感じ取っているものですが、

それが、余りにも当たり前であるために気付けない。

 

それを意識で捉えて

言語化したものが

 

NVCの聖なるエネルギー

(ディバイン・エナジー)の世界である。

 

全ての感情を含める

全ての感覚は、

 

聖なる存在に基づく

ニーズに基づいて起こる。

 

ソクラテスのデーモンの声も

心の奥から沸き起こってくる

 

デイモン(神)の合図として、 

彼は、それを感じ取っていた。

 

ソクラテスの感じた

命からの声を彼は神からの声と捉えた。

 

孔子の天命も同じです。

 

彼は、50歳にして天命を知るが、

70歳にして法を越えなくなった。

 

我々が、エゴと格闘して

私心を捨てることと同じである。

 

中庸にある

「誠は天の道なり、

 

これを誠にするは人の道なり。」と言う

この誠とは、如来で有り、

 

デーモンの声で有り

天命であると思う。

 

言葉は、呼ばれ方は違っても

同じ命の働きを捉えていると思う。

 

我々の感覚は、

我々の意識を越えた働きをしている。

 

それは、教えられて

得られる物ではない。

 

仏教の悟りは、

如から来るもの

 

(感覚の中に息づいている)

ディバインエナジーに気付くことである。

 

私は、エゴの意識の

中で生きてきたが

 

エゴの意識の外に

ディバインエナジーが働いていることに気付いた。

 

その時、私は、エゴのない心(仏性?)が

自分の内に存在することにも気付いた。

 

ソクラテスは、自分の内から

沸き起こる存在に従って生きた。 

 

信仰とは、自分の内なる声に

従う人間の姿だと思う。

 

その時、自分の中のエゴ(悩み)が消えて

無我(内なる感覚のまま)に安らぐ自分がいる。

 

その無我の意識は、

天命であり、天の道なのだと思う。

 

そこに安住するときに

心は清まる。

 

エゴが消滅した瞬間

思考する悩みも消える。

 

その瞬間に安らぎの

世界が現れると思う。

 

エゴと神とは、

コインの裏表である。

 

エゴが消えると

悩みが消える。

 

そんな世界があると思う。

興味のある人は、一度お話しませんか?

 

(あらかじめお伝えしますが、

狂信的な思い込みの人は、ご遠慮願います。)